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SNSは「生存者バイアス」を実感できる装置、なのか

「生存者バイアス」という言葉があります。とりあえずWikipediaでは以下の通り。

「生き残らなかったほうの記録(記憶)ってあんまり残らないから生き残った方の記録(記憶)だけで判断されがちだよね〜」みたいな話なんですが、どうもこれがブログやSNSの時代を経て変化しつつある気がしています。あくまでそんな気がするというだけです。誰もが記録を残す時代には期せずして以前はあまり残らなかった方の記録(記憶)がしっかり残ってしまい、その記録(記憶)に触れたヒトは生き残った方だけで判断しなくなることも増えてるのかなあ、ぐらいの話です。

ふた昔ぐらい前までは表に出てくる若い頃の武勇伝というか天然エピソードみたいなのは「危険な目に遭いそうだったけどギリギリセーフだった」とか「あの頃オレはワルだった」みたいな話が主だったはずです。踏み外してしまったヒトは語る場に出てこなかったり語る機会を持たなかったりが普通でした。ドロップアウトしたアウトロー的なストーリーを語るとしても立ち直った後とかだったりしたわけで、そういう意味では生存者バイアスというのはまさにそういうものだなと思わされます。

ブログやSNSで普通のヒトが大量に記録を残すようになっても「で、ギリギリセーフだった」みたいな話は多いように思います。ですが、一方で「ギリギリアウトだった」話も増えます。

「ギリギリアウト」が小零細出版社の飯の種だった時代があります。道を外れた人生のエピソードであったり現代社会そのものを否定するような主張であったりを本という形にまとめて世に問う、まさにそういう意味で私の尊敬する方は「書籍はメディアだ」とこともなげにおっしゃりました。いいも悪いも規模の大小もない、メディアそのものなのだと。

ところが、ブログ(元々のウェブログ)やSNSの勃興で流れは変わります。かつては小零細出版社が見つけ出して世に問うたような著者が自ら語り始めました。従来の出版とは違う形で世に放流される様々な主張や記録は、断片的なものもあれば壮大な叙事詩のようなものもあり、間違いなく今までと違う文化を生み出しています。それは間違いない。

そうした記録や記憶には、生き残らない方の記録や記憶も大量に含まれています。かつての武勇伝の流れで言えば「で、ギリギリセーフだったんだよ」で終わるはずだと本人が思いながら残しているエピソードがリアルタイムで綴られる過程で予想もつかないバッドエンドを迎えてしまうというパターンです。

武勇伝や若い頃のワル自慢はある種の承認欲求だったりします。承認欲求の塊が危ないところで助かれば面白エピソード、助からないと大変な話になります。

まさに「生存者バイアス」だなあと思うのですが、武勇伝って「ギリギリセーフ」だったから語れるわけです。アウトだと語れない。いや、語れなかった、かつては。

今はセーフになるかアウトになるかわからない状態で実況したりしてるわけです。実況している最中の本人が最終的にはギリギリセーフで武勇伝になると思っているのかどうかは分かりません。まあでもうまくいくと思ってる方が多いんだろうな。しかし、残酷なことにアウトだった場合も記録が残ってしまったりするのです。

私がリアルタイムで触れてしまった記録は、海外旅行をしている最中にマラリアに感染してしまった夫婦のお話です。ギリギリまで楽観的というかポジティブだったんだよなあ。リアルタイムではありませんが、ナイアガラの滝でおちゃらけて手すりに乗ったら滑って落下というのもありました。あとはあれか、軽装で富士山に登って滑落とかもそうか。最近は読まなくなったけど、闘病ブログもけっこう読んだな。後から本になったのも幾つかあった。

こうして私が書いている娘の記録も、どちらかというとアウトの方です。かつてはこういう記録はあまり残されなかった。いや、残された記録もあるかもしれませんが、こうして日々世界中(というわりには小さいスケールですが)に曝け出すみたいなことはなかった。今はなにもかもが簡単です。

ブログやSNSはキラキラと充実した人生の勝利者のマウント合戦の舞台なのだという見方もあるかもしれません。ですが、それもあくまである一面でしかないように思います。キラキラもドロドロも、かつてないほどの勢いで垂れ流されています。武勇伝になり損ねたリアルタイムのギリギリアウトも、これからますます増えていくことでしょう。

などと、Twitterのアカウントを凍結されたせいで、そんなことを考える一日でした。なんで凍結されたかの目星はついていて、多分、認証用の電話番号が他に運用している仕事用のアカウントと一緒だったからだろうと思います。スマホの認証アプリを使っておけば良かったと後から反省しています。覆水盆に返らず。これもギリギリセーフじゃなかった方のエピソードか。

とか、父親がそんなことでクヨクヨしているというのに、娘は今日も「シネエエエエエエエエ」などと叫んでいます。何が面白いのかなあ。まったくわからない。逆にわかってしまったらやばい気がします。

そういえば生理はまったく終わっていなくて、今日着替えた下着とパジャマは絶望的なほど血まみれでした。これだけ汚れて気持ち悪くないのかなあ。不思議だ。

いただいたサポートは娘との暮らしに使わせていただきます。ありがとうございます。