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ギャンブル放浪記


~ 登場するパチスロ機 ~

スーパープラネット(山佐3-1号機)
コンチネンタル(瑞穂3-1号機)
サファリラリー(エーアイ2-1号機)
アラジン(サミー工業2-2号機)


時は昭和。ケンは大学の同級生ジュンとともにパチスロに明け暮れる毎日。
パチンコ屋で出会った麻雀好きの先生と呼ばれる女性、その旦那の茂さん、ケンが好意を寄せているアイ、そして売春宿で働く里奈。
賭け麻雀と、裏モノ全盛時代のパチスロ、そしてケンとさまざまな女たちを描いたギャンブル恋愛小説。





第1章 アイ(約6ヶ月前)
 その日ケンの座った台は、近頃いまいち出ないスーパープラネットの93番台。百の桁の番号が無いことに何の違和感も覚えず、横に設置されている両替機でコインを買った。
 両替機の向こうには40近いおばさんが座っている。タバコを左手の人差し指と中指の間に軽く挟み、右手はその左腕のひじの下を支えるようにしている。服は水商売の女にしてはかなり地味で、化粧や髪の毛もいたって普通である。ただそのタバコを吸う姿が、ケンの彼女に対する印象を少しだけそう思わせた。近くに飲み屋街があることもあり別に不思議なことではないが、このパチンコ屋にはそのような少し訳がありそうな女性がいたりする。
 彼女はちらちらと見ているケンに気が付いたのか、タバコを備え付けの灰皿に置くとコインを投入し始めた。その手際の悪さから、ケンはその女が普段はパチスロをやらないことはすぐにわかった。彼女の手は若い女性のしなやかさと瑞々しさは失われつつあったが、家事や洗濯などをしてきたような手ではない。両手にはめられている指輪の数とその派手さからも推測できた。

 ケンは彼女の打つ台のリールをたまに見ているうちに、その台にビッグボーナスが入っていることに気がついた。このスーパープラネットは当たりを引いたか引いていないか、分かりにくい所も人気の秘密であった。
 何事もないかのようにその女性を気にしながら打ち続けていたケンであった。しばくして彼女は台の上の方に張ってあるリーチ目一覧表にしばしば目を向けるようになった。さらに目押しを乞うような視線を度々ケンに向けていた。ケンは彼女が気づかずにその台を打ちつづけ、残りのコインが無くなりそこを去るのを待っていたのだが、彼女がその台にビッグボーナスが入っていることに気がついてしまった。
 ケンは苦笑いをしながら、彼女の目の前に身を乗り出して目押しをしてあげた。一度目は777と止められず、慌てて自分のコインを3まい取りだしてもう一度トライした。今度は10秒近い沈黙の後『7・7・7』。
 彼女は「ありがとー」と思いっきり若づくりをしてお礼を言った後、ビッグボーナスのゲームを消化していた。一方、ケンの台は何の変化もないままである。
 ビッグボーナスの消化ゲームが終わると、彼女は店員コールボタンを押した後すぐさま席を離れた。店員が来るか来ないかの間に、2つの缶コーヒーをもった彼女の姿が見えた。目押しをしてくれたお礼にケンに気を使ってくれたのだろう。
「はいっ」
 彼女はいままでにない明るい笑顔で缶コーヒーをケンに手渡した。ケンは照れくさそうに頭を少し下げた。一旦は台の上にその缶コーヒーを置いたが、クレジットのコインがなくなりかけたときに、ケンはなんとなくその缶コーヒーを手にとった。
 パチッ。
 店内のうるさい騒音のせいでいつもは聞き取れないような缶の蓋を開ける音も、今日はなぜか聞き取ることができた。一方、彼女は買って来た缶コーヒーを飲もうとはせず、退屈そうにスロットを打ち続けている。
 ケンは何の変化もない自分の台にそろそろ嫌気がさしていた。
 しばらくたった後、彼女は時間を気にしているのか腕時計をちらちらと頻繁に見ている。ケンも便乗させられるかのように店内に掛けてある時計を見た。午前11時過ぎであった。彼女はいらいらしているようである。タバコに火をつけ、
「フーッ」
 一息つくと、今度はパチスロ台を、とんとんとんっ、と左の薬指でたたいた。だれかを待っているようである。
「誰か待っているんですか?」
 彼女は少し驚いたかのように、
「えっ? ええ」
 そう答えた。ケンは一瞬、まずかったかな? と思った。彼女はとくに気にする様子もなくそのまま打ちつづけている。普段はパチンコ屋の店内で知らない人に話しかけることはまずない。まして女性にはなおさらの事である。パチスロが二の次になってしまうからだ。そういう場合はほとんどの場合、負ける傾向にあった。
 少しの沈黙の後、その女性が尋ねた。
「学生さん?」
「はい、そうです」少し自慢げに答えた。
「ふうん」
 答えた後に黙りこくってしまった。ケンは何か悪い事でも言ったかな、という顔つきで彼女を見た。ケンは黙ったままもくもくと台を打ちつづける彼女を横目に、すでに財布の中のお金が少ないことに気がついた。今日はだめか、ケンはそう考えていた。突然、
「先生~!」
 後ろでなにやら若い女性の声が聞こえた。パチスロを打っていた女性は後ろを振り返り、
「アイちゃん、待ったわ~」
 持っていた数枚のコインを台の受け皿に少し丁寧に置いた。ケンも、何だ? と思いつつ、後ろを振り返った。
 会社の制服だろうか、薄い紫色のきちっとしたワンピースを着た女性が立っている。走ってきたらしく少し息をきらしているのがわかる。立ったまま彼女は視線をケンのほうに一瞬だけ向けたがケンはさほど気にしなかった。ただ隣に座ってパチスロを打っている女性と『先生』という語彙の持つ響きのアンバランスさが気になってしょうがなかった。
 先生? 何の先生だろう? ケンは首を傾げた。彼女はその『先生』に対して、
「お客さんが来ました」
「ふ~、つかれた」
 ため息をついて肩をおとした。たぶんこのアイという子は、この『先生』という女性を探し出すのにパチンコ屋の店内を走り回ったのだろう。『先生』は、
「じゃ、ちょっと待って」
 パチスロ台の受け皿にあったビッグボーナス一回分ぐらいのコインを、さっさとドル箱に入れると、足元に置いてあった黒いハンドバックを今まで座っていた椅子の上に置いた。
 アイは少しほっとした様子で先生がその台をきれいにする様子をそのまま見ていた。最後に残り少ないメンソールタバコを手にとった先生は、バックを右腕に通しドル箱を両手で持った。
「じゃ、行きましょう」
 ケンは『先生』という響きが妙に気になった。アイという子の着ていた制服というのが、病院にしては派手で普通の会社にしては少し軽い格好かなという感じがした。ちょうど、歯医者か獣医の患者を見るときの格好に似ていた。しかしあの先生と呼ばれていた女性がとても医者とは思えなかった。
 しかしずっと立って待っていたアイの履いていたサンダルを見て納得した。そこには、「エステティックサロン・カワバタ」と書かれてある。彼女はエステティシャンだったのか、とケンは納得した。
「この近くにそんな所あったっけ?」考えながらコインを持ちなおした。
 先生達がそこを去った後、3枚のコインを投入口に入れレバーをたたこうとしたケンは、横の台にポツンと置かれたプルリングがついたままの缶コーヒーを見つけた。
「あっ、忘れたのかな?」
 ケンはとくに持って行ってあげる訳でもなく、そのままスロットを打ちつづけた。コインは無くなりつつあったが気にならなかった。頭の中では別のことを考えていた。

「え~と、このあたりのはずだけど」
 ケンは回りをきょろきょろ見ながら歩いた。エステのあるビルを探すうちにパチンコ屋を通りすぎたが気にならなかった。
「このビルかな?」
 5階建ての灰色のビルが建っている。1階は駐車場になっており二階から上は歯医者や不動産屋などがある。ビルの外からでも各階のその大きなガラスから中の様子も見えるようになっていた。ケンの探していた「エステティックサロン・カワバタ」はビルの3階にある。ガラス張りに店の名前が大きく書かれてある。薄白いカーテンが掛かっていたため、中の様子ははっきりと見えなかったが、午前10時から営業するはずである。
 ケンはどうしよう、と迷っていた。エステでなければさほど気にせずに入れるが、自分は男である。最近男でもエステに通う人間はいるだろうが、そういう人間はどちらかと言うと好きになれなかった。
「う~む、何かいい方法はないものか」ケンは上を見上げてしばらく考えこんだ。
「とりあえず……、電話してみよう」電話ボックスを探した。
 すぐに見つかり、ポケットから財布を抜き取り昨日入れておいた紙切れを取り出した。
「えーと、この番号だな」
 書いてあった番号を押してエステにつながるのを待った。
 プルルッルッ――。しばらくすると、
「はい、エステサロン・カワバタでございます」
 アイとは別の若い女性の声だ。
「あっ、もしもし、少し聞きたいことがあるのですが」
「はい、何でしょう?」
 今日初めての客からの電話なのだろうか、声にハリがある。
「あの……メンズエステなんですが、そちらでやってますか?」
「はい、こちらで大丈夫ですよ。お顔ですか?」やさしい声が聞こえた。
「ええ、そうなんですけど、これからそちらに行ってもよろしいでしょうか?」
「はい、構いませんけど。お名前は?」
「あっ、河村と言います」
「分かりました。では、お待ちしています」そう言って電話が切れた。
「ふ~」
 ケンは一息つくと、少し時間をつぶしてからそのエステに行くことにした。タバコに火をつけると、そのビルから100メートルぐらい離れた場所で近くを歩いている通行人や車などをしばらく傍観していた。
 しばらくした後、ケンはさっきのビルの下にやってきた。いったん3階の大きなガラス窓を見上げると、そこにはカーテンは掛けたままであったが、中にはうっすらと動く人影が見えた。ケンはゆっくりと階段を登りながら、アイがいた場合のリアクションをどうしようかなどと考えていた。ケンは不安と期待とともに3階の入り口についた。
 少し重い扉を開けるとぱっと『白』が目に入ってきた。
「いらっしゃいませ」
 さっき電話に出た女性の声だ。
「あっ、さっきの?」少し驚いたかのような感じで言った。
 ケンは店の中をぐるりと見渡したが思っていたより狭く感じた。また雑誌やテレビで見たことのあるエステ用の機械やベッドが並んでいる。客は朝10時ということもあり、他に女性客1名だけいた。顔にタオルをぐるぐる巻きにされベッドに横たわっている。それはすこし異様にさえ感じた。
 さっきの女性がコーヒーを入れてきてくれた。ケンは申し訳なさそうにした。
「あの――メンズエステなんですけど……、いくらぐらいかかりますか?」
 その女性は店の入会や料金システムなどについて得意げに話した。ケンも一応は聞いていたが、アイの姿がどこにもないのが気になっていた。先生と呼ばれていた40近い女性もいない。
「店を間違えたのだろうか?」そう考えながらその女性の話を聞いていた。
「ごめん、ごめん、おくれちゃって」先生と呼ばれていた女性が慌てて店内に入ってきた。その先生はケンを見ると少し驚きながらにこっと笑った。
「いらっしゃい」
 持っていたハンドバックをイスの上に置いた。パチンコ屋にいた時に持っていたものと同じである。
「顔をキレイにしにきたの?」
 ケンの反応も気にせず、
「そーねえ、少しお肌が荒れているわね」
「今日は初めてだから無料でいいわ。リエちゃんやってちょうだい」
 するとさっき説明してくれた女性が、ケンをベッドの方へ導いてくれた。言われるままにベッドの上に寝そべった。
「気を楽にしてくださいね」
 女性は何やら温風機みたいな機械のスイッチを入れた。ぶぉーという音とともに、ホースの先端からサウナ風呂のにおいのする温風が出てきた。
彼女はその風をケンの顔の近くにあてた。
「熱くないですか?」
「ええ、大丈夫です」
 ケンは顔のまわりが熱くなり、だんだん気持ち良くなってきた。しばらくすると顔のマッサージをしているようだったが次第に眠くなっていった。
 気がつくとそこにはさっきマッサージをしてくれた女性はいなかった。
 後ろの方で、
「気がつきました? 気持ち良さそうに寝てたので、起こせなかったのよ」先生の声が聞こえた。ケンはベッドから置きあがりスリッパを履いた。寝起きに近い感覚であった。イスに座ると、先生がコーヒーを入れていてくれた。
「ごめんなさいね、今日アイちゃんはお休みなの」
 ケンは一瞬何の事か分からなかったが、すぐに気がついた。なんとも恥ずかしかったが、来週もまた来ることにしてその日はその店を出ることにした。
 帰り道ケンは考えた。その先生の話では一回顔をきれいにするのに3000円かかるという。たかだか温風をかけてマッサージするだけである。どうせパチスロで儲けたお金だったら、エステに使っても構わないや。そう考え来週もまた来ることにした。こんどこそアイに会えることを期待して。

第2章 いつものように
「ふうー」
 教室の一番後ろのドアを授業の途中で抜け出してきたケンは、ため息をつきながらタバコに火をつけた。空は曇りがち――まるで自分自身の心が映し出されている気がした。
「雨、降るかな……」
 抜け出してきた校舎の建物をケンはぼーっと見ていた。建物のヒビが増えたような気がしたからだ。大学に入学して間もない頃、ある教授が業者の手抜きでセメントを減らしたからだと嘆いていたことを思い出した。当時はふーんとしか思わなかったが、なぜだろうか今になると気になってしまう。
 同じ扉から逃げ出してくる学生らを背中で感じながら、すぐ近くにある駐輪場に無作法にとめてある原付バイクにまたがった。すっかりカビ臭くなったヘルメットをバイクから取り出し、あごの止め具をしないままキーを回した。ブロッロッローンという音がけたたましく鳴り響き、ケンは車の少ない通りへ出ていった。行き先はもちろんパチンコ屋である。
「早いな……」
 駐輪場の脇で立ちタバコを吸っているジュンの姿に気がづいた。ケンはバイクのスピードを落とし、ジュンの立っている場所のすぐ横にバイクを止めた。
「早いねー」
 少し意味ありげな口調でジュンに言った。ジュンは、
「昨日負けたからね」
 笑いながら言い返した。
 パチンコ屋の客どうしのあいさつは『おはよう』とか『こんにちは』ではなく、前の日の勝ち負けだった。それは特にケンとジュンといった親しい間柄だから、という訳でもなく、全然知らない者どうしであってもまたそうすることによって朝のコミュニケーションをはかるのだ。自分は昨日××番台でいくら負けたとか○○番台は爆発したという情報をばらまき、その台は今日は俺のものだという暗黙の了解を得ているのかもしれない。もしくはガセネタをばらまきその台の様子を伺おうという気かもしれない。
 午前9時55分。いつのまにか周りに20人ぐらいの人溜まりが出来ていた。このパチンコ屋は比較的に街の中心に位置するため、朝の台取り競争も自然と激しくなる。
「今日、何打つ?」
 ジュンが小声で聞くと、ケンは、
「コンチネンタル。ジュンは?」 
 ジュンはもうわかっているだろうというような顔つきで答えた。
「スーパープラネット」
 午前9時58分。この時間帯になると客はその日最初に打つ台を思い浮かべながら、コイン両替機に入りやすいように千円札のシワを伸ばしたり縦に折ったりしながら、軍艦マーチが鳴り響くのをただひたすら待っている。その日の客はそのほとんどがパチスロを打つ準備をしている。ケンとジュンも例外ではなく、この店に来たときは必ずといっていいほどパチスロだった。
 ケンは一人でパチンコ屋に通っていた頃はパチスロはまったくやらなかった。というよりもパチンコよりもどこか気品が高く、またお金もかかりそうだったので手が出せなかった。しかし最近よく同じパチンコ屋で会うこのジュンの影響もあり、パチスロという道に足を踏み入れることになってしまった。
 ジャスト午前10時!
 チャンチャーンチャッチャカチャッチャ、チャチャチャカチャーン。
 軍艦マーチが鳴り響いた。店員が入り口のドアを開けると同時に、客達はドドーっとなだれ込むかのように店内に駆け込む。この時のダッシュがその日の運命を変えてしまう。当たれば儲かるが学校に行かない、当たらなければ損をしさらに学校に『行けなくなる』。
 悪いことにこの店のすぐ向かいのビルには銀行があった。お金がなくなるとそこにお金をおろしに行けばいい。それでも無くなるとさらに横にサラ金の会社がある。こんなところでも近所付き合いが成り立っているものだと関心させられた。

 プロローン、プロローン……。
 ケンは何度聞いてもうざったいと思えるこのビッグボーナスの効果音を、すぐBETボタンを押すことで止め、ボーナスゲームを消化し始めた。
「快調、快調」
 ケンは一人つぶやき、ビッグボーナスを当てた後の満足感と優越感に浸りながら、ジュンはどうなったのだろうと考える余裕さえあった。ジュンはどうやら『モーニング』を引けなかったらしく、ケンのところに来ると一言残してさっさと帰ってしまった。
 最近ジュンはモーニングがとれないとすぐに帰ってしまう。どうやら長いこと付き合っている彼女からパチスロのことでいろいろ言われているようだ。ケンは何か申し訳ない気がした。
 パチンコやパチスロはお金は使うわタバコは吸うわ、さらに服にその匂いがしみついてしまう。しかしパチンコ・パチスロ依存症にいったんなってしまうとここに来ずにはいられないのだ。他に夢中になるものがなければ人間いとも簡単にわき道にそれるものだ。
 ケンは一人になってしまったパチンコ屋の店内で、モーニングで獲得したコインを消化していた。何となくむなしさを覚える時間帯でもある。
 あっという間にそのコインを使い終わると少しの躊躇を置いて、区切りをつけるために2千円だけ同じ台を打った。やはり何もおこらずケンはそのままパチンコ屋を後にした。

第3章 銭湯
 キーッ。ブレーキをかけて止まった。
 ケンはバイクの鍵を抜き取り、前カゴの中に入れてあったバックを掴み取った。郵便箱を乱暴に開けると郵便物以外のチラシなんかはそのままにしておいた。さらにダッ、ダッ、ダッとうるさい音を立てながら階段を登った。
 ケンの借りているアパートはとても古く、当然ながらトイレ共同・風呂なしである。
「授業もない、パチンコ屋臭いし、風呂でも――」
 ケンは独り言を言いながら、石鹸と外に干してあったタオルを取ってバッグの中に入れた。長いあいだ銭湯用に使っていたそのタオルはすでに黄ばんでいる。
「おはようございまーす」
 ケンは番台のおばちゃんにそう言うと、小さな白い紙切れを取りだした。
「はい、これ」
 テーブルの上に入浴回数券を置いた。そして『男湯』とでかでかと書かれたのれんをくぐり、もっていたバッグを2メートル四方ぐらいの低い台に置いた。
 ここの銭湯は休日でない日の昼間は、多くてせいぜい4人ぐらいの客しかいない。サウナや滝風呂さらに電気風呂まで備え付けられている。壁にはその銭湯のもつ温泉つまり鉱泉の効用が細かく書かれてある。ケンは何年もここに通っているが最初の一行もろくに読んだことがない。入浴してしまえばそんな効用など気にもならないぐらい気持ち良いからだ。
 体全体にぬるま湯のシャワーを浴びた後に、その銭湯で一番大きい浴槽に入った。
「フー」感嘆を上げた。ケンは朝起きたばかりのようなすがすがしい気持ちになった。朝入る風呂はいつもいいものだ。
 ガラガラガラー……。
 勢いよくガラス戸が開いたかと思うと、そこには40歳ぐらいの全身刺青の男性が立っている。その後にはどうやら子分という感じの目つきの鋭い若いお兄さんが続いて入ってきた。
「おうっ、そこだ」
 親分らしいその全身刺青の男は、若い男に向かって低い声で言った。子分らしいその若い男は、
「はいっ」
 言われた所に腰掛けた。ケンがこの銭湯に入ってきたとき脱衣所で見かけたこのただのおじさんと思っていた人は、実はやくざ屋さんの親分らしい。服を着ているとただのおじさんも、こうやって刺青を見せられると正直言って怖い。一緒の湯船につからないように気をつけながらケンは目を閉じた。
「どうしようかな~」
 ケンはある女性のことを考えていた。彼女の名前は『アイ』、とあるエステティック・サロンで働く女性で、ケンの思いを寄せている人でもある。出会ってから約6か月ぐらいが経過していた。いままでアイの女友達と一緒に遊びに行ったりしたけれど、なかなか二人きりのデートまでこぎつけない。どうにかしたいな、と考えながら妄想にふけっていた。
 サウナでひと汗かいたケンは水風呂でその汗を取り払い、その後一番大きな湯船につかった。
「ふ~……」目を閉じた。ケンはこの瞬間が一番好きである。
 さっきの二人組の子分の方が、脱衣所の低いテーブルの上に親分の着る服を順番どおりきちんと並べている。ケンは片目で見ながら早々と着替えた。着替え終わると、いつも飲んでいるコーヒー牛乳はその日はがまんして飲まずに帰った。

第4章 ドル箱
 ――4回目の両替を済ませたときだった。
 残り10枚ぐらいのコインを一度に投入しレバーを叩いた。左のストップボタンを押すと、その目は台の上に書かれてあるリーチ目の一つである。
 ケンはさっそく『777』の目押しを試みたが入っていない。初めてプレイする台に対して、ケンは必ず2~3000円使う間にこの『777』の目押しをマスターする。それはどの機種のスロットに対してもそうであった。ケンは何回が目押しを試みたが、ことごとく『ハズレ』であった。
「ちぇっ、ガセかっ」
 そう言うとストップボタンを適当に押していた。するといきなり、
 ギー、ガ―。
 という音とともに台の一番上の方にある回転灯が回り始めた。これはビッグボーナスかレギュラーボーナスがきた場合にのみ回転するものだ。たしかにバーの絵柄が横に並んでいる。
「レギュラーか……」
 ケンは疲れがどっときたかのような顔をしながらジュンの方を見た。ジュンも少し苦笑いしながらこっちを見ていたようだ。
 ボーナスゲームを終えると、受け皿に100枚程度のコインがポツンと残っていた。どうせこのコインもすぐになくなるんだったら、レギュラーボーナスなんて引かないほうがいいや、ケンはそう思っていた。
 しかし、このレギュラーボーナスがサファリラリーの重要なカギを握るということをケン達は知らなかった。しばらくするとまたレギュラーボーナスを引いたのである。
「なんだコリャ?」
 ケンはコインを投入するスピードを上げていた。それからしばらくの間、レギュラーボーナスの連チャンは止まらなかった。周りに座っていた客もケンの打っている台を頻繁に見ている。
 結局、そのレギュラーボーナスの連チャンは11回で終わった。ケン自身も驚いたが、さらにその後すごいことが起こった。20~30枚位のコインを投入した後に、こんどはビッグボーナスの11連チャンがきたのだ。
 ビッグボーナスの連チャンが終わった後、ケンの持ちコインはすでにドル箱3つ分に達していた。お金に換算すると6万円分はある。かたやジュンはというと、1万円ぐらい投資した後にビッグボーナスを引いただけで、すっかり手持ちのコインを流してしまった。ケンの好調な出コインを見てジュンの顔は真剣みを増している。
 すっかり上機嫌になっていたケンは、コインの何枚かを缶コーヒー2本と交換してきた。そして1本はジュンに渡した。
「サンキュ」
 ジュンはひたすら打ち続けていた。結局その日、ケンの前の棚には8箱ものコイン一杯のドル箱が積まれた。
「すごいなぁ、にいちゃん」
 2つ向こうに座っていた知らないおっちゃんがそう言って苦笑いした。ケンはそのように言われることに慣れてはいたけれど、8箱ものドル箱を積むことはめったにないため少し動揺した。その後レギュラーや単発のビックボーナスを引くようになり、怒涛の連チャンはそれで終了したようだった。スロットコーナーに来る客のほとんどがケンの積まれたドル箱を恨めしそうに見るため、ケンはそろそろ台を離れようと考えていた。
「とっとと、止めよう、もう出ないや」
 ケンは2つ向こうの恨めしそうに見ていたおっちゃんに聞えるように言った。どうせ止めるなら、このおっちゃんに続きを打ってもらいたいという思惑があったからだ。
自分の知らない人間が打つよりもこうやって『知っている』人間にひき続き打ってもらい、その結果をいつか教えてもらおうという魂胆である。パチンコでもよくあることだが、自分がそれまでさんざんつぎ込んだ台やさんざん出させてもらった台の、その後の『出方』というのも気になるのである。
 ケンはカウンターにて勝ち取ったコインを換算してもらった。いつもは無愛想なお姉さんも今日は少しだけ笑って応対してくれた。笑ってというよりはむしろ呆れている感じにとれた。
 パチスロコーナーでひたすら打ち続けているジュンに、遠くから「もう帰る」という合図をしてジャラジャラとうるさいパチンコ屋の店内をあとにした。
 数ブロックはなれた換金所に行き現金に交換すると、ケンは家路についた。こんな日はあまり調子にのって外を出歩かないほういい。ケンはそれまでの経験からそう考えていた。

第5章 ネオン街
 パチスロの勝ち分のうち、10万円は滞納していたアパートの家賃の支払いのためにうす茶色の封筒にしまっておいた。ケンはパチスロで大勝ちしたときには、このように封筒に保存しておくことが多い。ほんの気休めではあるものの、こうやって取っておくほうがお金がどうしても必要なときにしか使わない気がするからだ。
 ただパチスロで大損したときにひっぱり出すのもまたこの封筒である。今回は滞納分の家賃をさし引いたとしても残りの5万円が手元に残った。
「けっこう、勝ったな」
 スロットを打っているときには金銭感覚が麻痺してしまう。現実の金銭感覚を取り戻すには、家に帰り一息入れることが大切である。
「ふーっ、疲れた……」
 ケンはその場に横になって呟いた。
 天井にぶら下がっている蛍光灯を見つめながら、ぼーっとした。パチンコ店内のあの耳障りな雑音がまだ残っている。しんとしたパチンコ店も不気味であるが、少しは静かなところもあってもいいのにと思った。
「もう、5時か」
 飲まず食わずでスロットだけ打ち続けていたケンは、急激に空腹を感じていることに気がついた。
「腹減った……」
 大学の講義を聴いているときには、その時間になるとすぐ空いてしまうお腹であったが、パチンコやパチスロをやり始めるといつの間にかそれを感じなくなることがある。昼食や他に何か用事があるときに、一時間くらいだけそれまで打っていた台をキープできるサービスもある。それでも「あといくら、あと少し」と思いながら、ずるずるとその台を打ってしまうのは、既にその台の『虜』になっている兆候だった。
 そして店内にいくつもある缶ジュースの自動販売機を、その日の食堂代わりにすることもある。今やケンとってその自動販売機の『牛乳』が、パチンコ屋でとる栄養のほとんどを占めている。
「はーっ」
 ジャラジャラとした雑音が、やっとのことで頭の中から去りそうだった。
「なぁんか……」
 本来であれば講義が終わったくらいの時間だろうか。
「たまには、ブラっと――」
 ケンはいきなり立ち上がり、タバコ臭くなっていた上着を新しいものに着替え始めた。まるで合コンか何かに行くようなワクワク感に包まれながらヒゲをそり髪をとかした。
 ケンの住んでいる街の近くにはいわゆるネオン街が一つだけある。狭い路地にスナック、パブ、ストリップ、風俗、そしてパチンコ店が立ち並び、夕方以降になると茶褐色に染めた肩まで伸びる髪にきらびやかな服装をした女たちが、店の前で会社帰りのサラリーマンに声をかけている。
「いかがですか、今ならタイムサービス中でーす」
 ぎこちない口調で18歳前後と思われる女の子がケンに話しかけてきた。パチンコ帰りや、飲んだ帰りにこの付近を通り過ぎることはあった。しかしながらこういったお店に入ろうと思ったことはほとんどない。今日はどこかのお店に入ろうと意気込んで来たため、いざとなるとドキドキしてしまっていた。ましてや親のスネをかじっている大学生という身分のせいだろうか、少し罪悪感を覚えていた。
 やはり一人で来ないほうが良かったかな、ケンはそう思いながら狭い路地をぶらぶらと歩いていた。
「二度と顔見せんじゃねーよ」どこか近くのビルの中から、叫び声が聞えた。
 しばらくすると歩いていた路地の左側のビル、二階の真ん中付近の部屋から60歳ぐらいの老人が女性に叩き出されるように出てきた。
 ガシャーン。何かが割れる音がした。
「てめえ、何しやがる!」
 その老人は部屋の中の女性と思われる人物にそう叫ぶと、扉をパタンっと閉めた。
「くそっ、あのやろう」
 そう言うとビルの通路にも関わらず、「ぺっ」唾を吐き捨て、ぶつくさと独り言を言いながら、なれた感じで手すりをつたってビルの階段を下りてきた。ビルの近くの居酒屋のご主人や客引きの女の子たちは、
「あー、またおやじか」
「また、やってるよ」
 そういった感じでその老人らの騒ぎを眺め、しばらくすると何事もなかったかのように仕事を続けていた。
 少し酔っているように見えるその老人は、あっけにとられて観察していたケンに気がつくと、少しだけ目をそらすかのようにして足早に通り過ぎていった。ケンは何も考えずにもう一ブロック向こうの通りに向かった。
 ぼんやりとすれ違う人々を観察しながら歩いた。会社帰りに先輩と飲みに来たサラリーマン、自動販売機までタバコを買いに来たスナックの従業員と思われる女、ファッションヘルスと書かれた看板の横で客引きをしている黒いスーツ姿の男。ケンにとっては興味深い未知の世界がネオン街には存在した。
 しばらくすると、気のせいか表通りのきらびやかなネオン街とは異なった感のする通りに来てしまったようだ。ケンは何も考えずブラブラと歩いていた。

第6章 里奈
「お兄さん、私でどう?」
 いきなり横からそう言って近づいてきた女がいた。20歳代の半ばぐらいだろうか、さほど化粧は濃くはないものの、光の具合からか周りの暗さに溶け込むような肌の白さが印象深い。けっして美人ではないが愛嬌のある微笑みには好感がもてた。ただ、刹那に見せる目の奥から睨みつけるような視線は、何となくひっかかるものがあった。どこか世間に負い目があるような、恨んでいるといっていいぐらいの鋭い感覚を無理やり押し殺している感じがした。
 若気の至りかもしれないが、ケンはそういった何かを『抱え込んで』いそうな女に惹かれるところがあった。小さな子供がだれかの吸いかけのタバコを思わず吸ってしまうような感じとどことなく似ている。
 ケンは思わず、それまで歩いていた足の移動速度をゆっくりにした。女は『しめた』というような顔をして、ケンの顔を上目使いに懇願してきた。
「どう?」
 ケンは一瞬、何のことか分からなかったため、それまで歩いてきた暗い路地の雰囲気と、女の立っていた場所を思い返した。古ぼけたアパートの入り口と思われる所から、薄暗く黄色い明かりのついた二階の部屋へと続いている場所……。
「もしかして――」
 どう答えていいのか分からず、その場を通り過ごそうとした。
「……」
 女は何も言わずに、その場に立ったままケンを目で追っていた。
 ケンは、女が別の何かに行動を移していると思われるぐらいの間を、その場所からいくらか歩くことで補った。しばらく歩いたあとに、後ろをなんとなく振り返ってみた。女はさっきの場所から動こうとはせず、光のあまり届いていない通りの反対側の溝をぼんやり見ている。横顔はどことなく寂しげな印象をケンに与えた。
 ケンはしばらく立ち止まったまま、自然とさっきの女の視線に自分の体が入るのを待っていた。女がケンに気づくのを期待したのだ。
「あらっ」
 彼女の視界にケンという存在が入ったらしく、女のそれまでの寂しげな横顔が、愛嬌のある懐かしい感じのする微笑みになった。
「まだ、いらしたのお兄さん」
 年配の女性が言いそうなセリフで聞いてきた。ケンとまた話すことを期待していたかのような感じである。
「あのー、こういった所は初めてで……どういったことをするんですか? いったい」
 ケンが聞くと、
「ふふっ」
 女は吹き出し、ケンの顔を一瞬見上げ、その後お腹を両手で押さえたまま微笑んでいる。
「一緒に来たら分かるわ」
 そう言うと、ささっとケンの手を取りさっきの古ぼけたアパートの前まで連れてきた。湿々とした暑い夜とは対照的に、思わず『すっ』とするような冷たい手ではあったが、その柔らかな感触にケンは何となく幸福感を覚えた。二階の部屋からは、薄暗く照っている黄色いランプの色が揺れていた。
「さっ、どうぞ」
 女はケンの前をエスコートするように階段をのぼっていった。ケンは言われるままにその女について行った。
 古ぼけたアパートの階段の上には、大人3~4人ぐらいで一杯になるぐらいの小さい部屋があった。窓はない。待合室として使っているような感じである。
「ここで待っててね」
 女はせまい廊下を向こうに歩いて行ってしまった。待合室と思われるこの部屋には中央に小さなテーブルがあり、マンガや週刊誌などの雑誌が置いてあった。ケンはひととおり部屋を見渡した。ほかに客はいないみたいだ。
「ふー」
 不安と期待感、罪悪感、いろいろ入り混じった感情があった。
「お待たせ」
 外で見た服装よりも、いくぶん派手な服に身をまとった彼女がそこにいた。
「こちらね」
 ケンは何も答えず、言われるままに歩くと『ぎしっ、ぎしっ』と鳴る狭い廊下を、女に付き添うようについていった。
 その廊下をほんの少し歩いていくと、黄色いランプの灯っている部屋が前方にあった。ちょうど肩の高さぐらいにあるすりガラス越しに淡い光がこぼれている。女はそのドアを開けるとケンを部屋の中に導き入れた。
「どうぞ」女がやけに微笑んでいるようにケンは感じた。
 真ん中に布団らしきものが敷いてあり、部屋の隅には彼女のものと思われる化粧品が鏡台の上に置いてある。なんともさっぱりとした感じで、意外な部屋の印象にケンは戸惑っていた。そしてこれから自分がこの空間で彼女に対してどういった行動をとるべきなのかをまじめに考えていた。
「ラクにしてね」女は手馴れた手つきでケンの腰のあたりに手を回してきた。
 ケンは『ビクッ』とした。
「あら、シャイなのね」
 薄手のネグリジェっぽいワンピースの上から乳房の膨らみが分かった。女は見上げるようにケンを見つめると、
「触っていいのよ」
 ケンの手を自分の乳房を覆えるようなところに置かせた。ワンピースの上からふくよかな乳房の感触が伝わった。そして小さな突起物が手のひらに当たった。
 女は、わざとか、思わずか、
「あっ……」息を漏らした。
 ケンはそれまで真っ白だった頭の中が、徐々に冷静になっていくのを感じた。ある程度の不安が払拭されたからだろうか、外から傍観していた世界に足を踏み入れたという実感があったからだろうか。ただ、興奮という別の感覚が湧いてきた。
「下の名前だけ教えて」女が聞いた。
「ケッ、ケンです」
「私は里奈、よろしくね」
 かすかな化粧水とシャンプーのにおいがした。ケンは意外と冷静に里奈の片方の乳房を揉んだ。自分の意のままにというよりはむしろ相手が感じやすいように合わせた。里奈の気持ちよさそうなため息を聞くと、ある程度の芝居と分かってはいながらも思わずうれしくなった。
「脱がせて……」
 里奈は、ケンが自分の服を剥ぎやすいような場所に両手を置いていた。薄地のワンピースを上のほうから脱がされると、
「じゃ来て」里奈はケンの腕を握りしめ、布団みたいなものの上に寝そべった。
「やさしくして」
 里奈はいかにも女々しい感じのする言葉を発し、目を閉じた。ケンは透き通るような乳白色の肌を子猫のように舐めまわした。
「あっ、いやっ、くすぐったいっ」里奈は笑いながら悶えた。
 こんな古いアパートであれば、隣の部屋の人間に聞こえるであろうというぐらいの声である。ただ、ケンはそんなことを気にする余裕などない。
「あっ、うんっ」
 里奈は、戸惑いながらも愛撫するケンをリードするかのように喘いだ。ケンもそのことを感じ取ったらしく、里奈の欲するところを愛撫するようにした。
 どれくらい経っただろう。二人はまるで恋人のような感覚で布団みたいなものの上に寝そべっていた。
「時間はいいの?」
 ケンは里奈がいつまでも隣にいることに、なんとなく違和感を感じた。
「うん、別にいいよ」里奈はケンのほうを見つめた。
 こういうところのこういう行為の後は、たいてい事務的なものだと想像していたケンは少し意外な気がした。
「今日はラストだから、少しは長くなってもいいのよ」
「そう」
 ケンはちょっと得をした感じがした。
「それに――」里奈は小さな声でそう言うと、そのあと黙ってしまった。
 ケンはとくに聞き返さなかった。しばらくの沈黙のあと、
「そろそろ、服着よっか」
 里奈は布団らしきものから裸のまま出ると、化粧台の近くの入れ物に入れてあったワンピースをそのまま羽織った。下着はどこかに行ってしまったらしく別に気にもしていないようだ。
「そだね」ケンも自分の服を着た。
「じゃあ、1万5千円ね」
 里奈はちょっとだけ恥ずかしそうに、ケンとは目を合わさずジーンズのベルトの付近を見ながらそう言った。
「はい」
 ケンは2枚の万札を里奈に手渡した。考えていたよりも高くないと感じた。少なくとも2万円はするだろう、いや、これぐらいの女であればもっと取られるであろう、と想像していたからだ。里奈はおつりの5千円を差し出しながら、
「初めてだから、サービスね」
 商売上手なのか本当にサービスしてくれたのか、いずれにしても一番初めに会った時のあの鋭い感覚からはほど遠いやさしさに満ちた笑顔につられて、ケンは素直にまた来たいと思った。
「ありがとう」
 そう言うとケンは靴を履いた。里奈もサンダルに足を通した。
「彼女はいるの?」
 ふと口から出た言葉という感じで、里奈の目はまっすぐにケンの目を見つめていた。
「いないけど……」
 ケンは普通に答えたつもりだったが、その後どう話をつなげていいものかとまどった。彼女がどのような言葉を期待しているのか分からなかった。しばらく沈黙が続くと、
「――じゃ、また来てね」
 里奈が切り出した。そのあとケンの手を取ると廊下を歩きながらエスコートした。二階の階段の一番上の場所までくると、
「ばいばい」
 里奈は手を振った。薄っぺらいネグリジェのようなワンピース姿では、さすがに外に出るのは恥ずかしいのだろう。
「じゃあ、ばいばい」
 ケンもつられて手を振った。来たときよりも幾分の高揚感がある。里奈のわずかな残り香を感じながら階段の一番下まで降りてきた。
 なんとなくゆっくりと階段の上のほうを振り返ったが、里奈の姿はなかった。ケンは少し寂しい気持ちもしたが、そのまま、まばらだった周りの人々の視線をさけるように、路地裏を足早に走っていった。
 外はしとしとと雨が降っている。
 ケンは、里奈のことを思い浮かべるというよりはむしろ、体に付きまとう里奈の感触にゆっくりとなでられているかのような感覚を楽しんだ。やわらかくふくよかで、やさしい感じの感触。なんともいえぬ感覚に浸りながら、雨が振り出していることに気づかないケンであったが、すれ違う人々が傘をさしていたため、はじめて雨がふっていることに気がついた。
「雨か……」
 閉まっているラーメン屋の入り口付近で、雨が止むのを待っていた。目の前を傘をさしながら足早に通り過ぎていく人、雑居ビルの入り口でスナックの女たちに見送られる中年サラリーマンたち、居酒屋チェーン店の前で二次会の場所をどこにしようかと語っているコンパのグループ。
 ケンは彼らと自分を見比べた。大学にもろくに行かず、パチスロで生活費を稼ぐ毎日。アルバイトもせず、こんな生活をやってていいものだろうか。友人から「パチプロになればいいだろ」と冗談みたく言われたこともあったが、今日みたいな大勝ちが続けばそれもいいかもしれないと思っていた。
 気のせいか雨が小降りになったみたいなので、ケンはその場を飛び出し、なるべく通りの隅っこを歩いていった。とりおえず今日はもう帰ろうと駅のある方向に向かった。
 駅の近くになると、いつの間にか人通りも増えていた。

第7章 電話
 次の日の朝、ケンはいつものように9時半前に目が覚めた。最近では学校に行く回数よりもパチンコ屋に向かう回数の方が多くなった。
「ふぁ~」
 昨日のあの台はどうなったのだろう。ケンはどうしても知りたかった。サファリラリーはそのまま出っ放しということが多い機種だからだ。逆にずっと出ないといことも多い。
「さて、そろそろ準備しようかな」
 ケンは洗面所に向かおうとした。そのとき、
 プルルルルルー。
 この時間だとジュンからの電話がほとんどだ。今日はどこの店に打ちに行くつもりなのか、確認か何かの電話だろう。そう思ったケンは受話器をなにげに取った。
「早いね今日もー」
 相手の声も聞かずにそう言ってしまった。たいていの場合その後「今日どこにいく?」といった返事があるのだが、今日は無言である。数秒後、
「あっケンくん、ごめん、朝早く電話しちゃって」女性の声だった。
「あっ、はいっ」あわてて受話器を握りなおしたケン。
「カワバタですけど」
 エステサロン・カワバタの経営者でもある先生からの電話だった。
「どっどうも。いつもお世話になってます」びっくりしたケンは、サラリーマンのような口調になっていた。
「ケンくん、今晩空いてる?」
 いきなりデートのお誘いかと思ったが、先生が自分なんかをデートに誘うはずがない。ご主人とお子さんもいるサロンの経営者なのだから。
「あ、はいっ、一応空いてますけど」
「あっそう、じゃあ良かったわ。ねえ、たまに麻雀とかするって言ってたよね、ケンくんって」
「はい、まあ、弱いですけど、ときどきですが」
 ケンは麻雀は強くなかった。どちらかと言うと負けることが多い。
「じゃあ、今晩、麻雀しないかしら? アイちゃんが麻雀やったことないから、一回やってみたいらしいの。それでどうせならと思って」先生はケンの返事を待っていた。
 おそらくケンがアイに対して好意を持っていることに気がついているのだろう。でなければわざわざこのような電話をかけてくるはずがない。ケンは先生の好意が素直にうれしかった。
「あっ、じゃ、やります、今日」ケンはちょっと上ずった声になった。
「そう、じゃあ、6時ぐらいにエステの事務所で待ってるから」そして先生は電話を切ってしまった。
 ケンは先生と呼ばれているこのサロンの経営者が好きだった。さっぱりとした性格で、いろいろな面で気が利く。エステサロンはここ何年か前に始めたみたいで、女性間のエステブームにも便乗し、最近ではかなり繁盛している。好きな麻雀ものんびりできないと愚痴っていたこともあった。
 いわゆる中年の年代にあたる女性ではあるが、夜の繁華街のにおいのする素振りが残っていた。他人に対する配慮やその裏表のありそうな態度から、ケンはなんとなくそう感じていた。
 エステの近くに立地するこのパチンコ屋は、いわゆる繁華街のど真ん中にある店で、あまり出玉、コインは良くない。それでも客の入りは良い。比較的に出なくても待ち合わせ場所、飲む前の時間つぶし、さらにデートコースとしても利用されるからだろう。
「麻雀か……」
 ケンはそう呟くと、自分があまり麻雀が強くないことよりも、アイが麻雀に興味を持ち、さらにやってみたいと言っていた、ということがなんとなくひっかかっていた。
 午前10時まで、あと10分しかない。
 ブロロロロッーー、キーッ。バイクを乱暴に止めると、すぐさまキーを抜き取り、そして走った。
「くそーっ、間に合わなかったー」
 パチスロコーナーを見渡すと、何台かの回転灯が点滅している。モーニングに当たったのだろう。ケンは大勝ちした昨日の台の近くまで急いで歩いていった。
 昨日の台はモーニングはセットされていなかったらしく、初顔のおばちゃんがのろのろと打っていた。昨日爆発したこの台の噂を聞いてためしに打っているのだろう。今日に関して言えば、おそらくこの台はたいしたことはないだろう、ケンはそう思った。
 ここでジュンを見かけなかったこともありケンは大学へと向かった。

第8章 単チェリー
 パチンコパーラー7。最近新装開店したこの辺りの立地条件にしてはかなり大きなお店。パチンコ、パチスロとも内容は充実しており、休憩コーナー、コインロッカー、トイレも何箇所かに設置されている。特に若者に人気のあるグループ企業経営の大型パチンコ店だ。
 パチスロは、最近人気のCRパチンコ機に押されている。ちょっと前までは一発台やアレパチと称される機種の人気があった。しかしながら規制によりその極端な博打性を持つ機種に慣れてしまった人々が、CRパチンコ機に鞍替えしたという訳である。いずれこのCRパチンコ機の異常な連チャンも規制の対象になるだろう。規制される前にことごとく攻略するのが賢いやり方なのだろう。
「手持ちがこれだけだし、まずは羽根ものだな。えーと、あっ、あった」
 薄っぺらい財布を覗き込みながら、お気に入りの「たぬき丼」の164番台に座った。
 チロン。チロロ……。300円だけ隣に設置されている両替機に投入した。
 ガー、ガー、ガー。両手ですくうようにしてすべての玉を手のひらで受け止めた。
 ザッ、ザーザー。玉を台の投入口に入れると、すぐさま右下にあるハンドルを握って玉を打ち始めた。2、3発とんだ後に、手前のテーブルに転がっていた割り箸の切れ端でストロークを固定した。誰かがこの台を打つために置いて行ったのか、ある程度の経験のある客が長いこと打った台に違いない。
 ジャラ、ジャラー。羽根が開いて役物の中に入ったものの、Vには至らなかった。釘が良いのか鳴きがすばらしく良い。少ない投資金額にも関わらず玉がほとんど減らないことから良台であると言っていいだろう。
 そうこうしているうちにすんなりとVを引いた。少し離れたところに置いてあったドル箱の半分サイズの箱を取り手前のテーブルに置いた。
「出だし、好調」
 わずか300円でVを引けるヒコーキ台は『楽しめる』機種だと思った。結局、2~3時間もの間に同じ台を打ち続け、ドル箱一杯までになった。羽根物でこれだけの玉を出すのはなかなか難しい。
「疲れた、そろそろ、いいかな」
 ケンは全てのパチンコ玉を両替した。5千円を超える勝ちになった。これでCR機もしくはスロットを打つための軍資金ができた。所詮パチンコで得た金だ、負けても後悔はしない。待ち合わせの時間までまだ2時間はある。たとえ連チャンし『ヒトヤマ』あったとしても、十分こなせる時間だ。
 ただ、どつぼにはまった場合には待ち合わせの前に打ったことを後悔するはめになる。絶対に行かなくてはならない用事の前に、連チャン性の高いパチスロ、特に吸い込み方式のスロットを打つことは避けるべきだ。ケンは今日に限ってその鉄則をすっかり忘れていた。
「5千円で出なかったら、一旦帰ろう」
 「アラジン」の204番台の前に座った。ちょっと『アラビアン』な感じをかもしだすアラジンは、ケンにはあまり相性の良くない機種だ。他の機種に比べるとビッグボーナスの連チャンが少ない。他のビッグボーナス主体の連チャン機を打つ感覚とはまったく異なっている。その辺りの気持ちの切り替えが上手くいかない機種でもある。
 しかしながらこのアラジン目当てにこのお店に来る客も少なくなかった。なぜなら独特のシステム「アラジンチャンス」通称『アラチャン』の存在が大きい。一旦ソレに入ると、ビッグボーナスを引くまでコインが出続けることがほとんどだ。出続けるといってもドル箱1つ2つではない、一日中ずっと出っ放しということもある。
 ケンはよりによってこんな日にソレを選んでしまった。アラチャンはいままで一度引いたことはあるが、レギュラーボーナス程度のコインを払い出した後にビッグボーナスを引いてしまいそのまま終了した。その印象からかさほど稼げない機種というイメージがケンのなかにある。
 実際に継続する『チャンス』はそのコーナー全部のパチスロ台のうちせいぜい1台あるかないか程度だ。またアラチャンに入ると自動的に回転灯が点灯するようになっており、ビッグボーナスではないときにこのランプが回り出すと、周りの目が一気にその台に集中する。いわゆる見せ台としての役割をもたせているのだ。なんとも店側にとっても好都合な機種だろう。
 さっきのヒコウキ台で得た金で打つからだろうか、同じ日の夜に麻雀に行くからだろうか、その日のケンの出玉やコインを除いて、アラジンという機種の選択は明らかにミステイクであった。
「目押しがたいへんだな、こりゃ」もち金が底をつき始め、ケンは諦めかけそうになっていた。
 『プルッ』まったく見ていなかった自分の台から、突然ソノ音が聞こえた。
 『単チェリー』だ!
 ケンは飲んでいた缶コーヒーをテーブルの上に置き、思わず身を乗り出した。ガセ、すなわち一般的な役としてチェリーの可能性もなくはないため、ケンは恐る恐る、もう一度リールを回した。ジャラジャラジャラー。
「うむ」
 ジャラジャラジャラー。目の前のスロットマシンが光り出すと同時に、回転灯が回り出した。
「慌てるな、パンクするかもしれんしな」
 ケンは念入りにコインを投入した。通路の対面に座っている常連客と思われる兄ちゃんが頻繁にこちらを見ている。しばらくして店員が「アラジンチャンス」と書かれたボードを台番号の上の隙間に差し込んだ。
 見た目では『アラチャン確定』だ!
「やっと、きた」思わず笑みがこぼれた。ケンはランプが止まらないことを願いながらひたすら打ち続けた。そのマシンの内部から流れてくる心地よいサウンドに酔いしれながら。

第9章 アラちゃん
 パチッ。その日、3本目の缶コーヒーを開けた。
「ふーっと」
 やっと一息いれることができる。『アラチャン』は順調そのもの、マシンは絶え間なくコインを吐き出している。なるべくコインの投入からレバーを叩くまでの間をとらせずに打ち続けた。待ち合わせの時間があと1時間と迫っているためだ。
 1時間もの間、ずっと払い出されたとしても、そのコインはたいそうな量になる。にも関わらずハイスピードで打ち続けたのは、アラチャンの途中でやめるということだけは避けたかったからだ。
 しばらくすると缶コーヒーを飲みすぎたせいだろうか、ちょっとトイレに行きたくなった。トイレはどこだっただろう。場所を思い出しながら、隣のパチンコのシマを通り過ぎようとしたとき、ケンは見覚えのある女の横顔を見かけた。
 ――里奈だった。
 パチンコの平台に熱中している。隣にはだれも座っていない。どうやら一人らしい。
 念願のアラジンチャンスで高揚した気持ちも便乗して、彼女の視野に入るであろう方向からわざと彼女に近づいた。先に声をかけたのは里奈のほうだ。
「あ、この前の――」
 さほど動揺はない。ケンが「暇なときはよくパチンコに行くんだ」などと、この前つい言ってしまったかもしれないからだ。
「へー、パチンコなんてやるんだ」
 ケンは里奈にそう聞いてみた。
「うん、前つきあってた彼が、よくやってたからね」里奈は言い返した。
「そっか」
 右側の通路に立ったままケンは話した。里奈の打っている台はいわゆる端台である。女性やビギナーの好む場所だ。
「実はさ、さっきアラジンチャンスに入っちゃって――」
 ケンは思わず自分の打っているアラジンについて話し始めた。
「アラ……チャンス?」里奈は首をかしげた。
「そう、パチスロの連チャンの一種かな」ぼんやり見ながらそう言うと、
「じゃ、なんか知んないけど、勝ってんだ」里奈はケンに微笑みながら答えた。
「今のところね、でも、もうしばらくしたら台を離れなきゃいけないかも……」ケンは怪訝そうな表情をしながら言った。里奈は不思議そうな顔をした。
「ちょっと約束があってさ。せっかく勝ってんのに――」ケンは里奈の打つ台を見ながらそう言った。
「ふーん」里奈は打っている台のパチンコ玉を触りながらそう呟いた。
「じゃあ、私が替わりに打っといてあげよっか」里奈の口から出た思いがけない言葉に、ケンは正直びっくりした。
「いいんでしょう? 前にもやったことあるよ、私」
 以前つきあっていた彼氏の替わりに打ったのだろう。一回肌を合わせた仲とはいえ、見ず知らずの女に、自分のアラジンチャンスを代わりに打ってもらうなんて考えてもいなかった。ジュンに電話して儲け半々という条件で来てもらおうと思っていたのだが……。
「いいじゃん、やったげるよ。今日は仕事も休みだしさ」
「べつにいいよ、タダで」
 里奈は愛想が良かった。ケンはしばらく考えた。
「ほんとにいいの?」
「うん、いいよ」
 里奈はそれまで打っていたパチンコ台の玉を、わざと強いストロークで打って終わらせた。
「じゃ、お願いしちゃおうかな」
「オーケー、で、どこなの?」
 里奈はアラジンの設置されているコーナーを探し始めた。ケンはトイレに行くのも忘れて、パチンコからスロットのコーナーへと里奈とともに移動した。回転灯とマシン本体が点滅していたので、どの台がケンの打っていた台かすぐに分かった。
 アラジン204番台の前に里奈を座らせた。知り合いに台打ちしてもらうことはあまり歓迎されていないが、夫婦やカップル客にはあえて許すところがある。ケンと里奈もそういったカップルに間違われたのかもしれない。
「コインを3枚入れて、このレバーを叩けばいいんでしょ? 簡単、簡単」
「で、このなんとかチャンスが終わったら換金すればいいのね」里奈は、はりきってケンに聞いた。
「うん。でも大丈夫?」
「うん、まかせといて」
 里奈は、ぎこちない手つきで投入口にコイン3枚を入れた。おそらくスロットは普段まったくやらないんだろう。
「用事って何時からなの?」
「6時」ケンは立ったまま答えた。
「もうそろそろじゃん。いいよ行っても」里奈は、せかした。
「ほんとに大丈夫かな……」
 ケンは、必死に7を目押ししている里奈を心配そうに見ていた。
「あっ、あと、もし勝ったらさ、こんどお店に来たときにお金渡すから」
 ケンはその言葉を聞き、はっとした。この台の勝ち分を自分の体に払ってもらおうという魂胆だった、ということに気がついたからだ。
 ケンはしばらく考え込んだ。約束の時間は迫っている。ジュンに連絡して来てもらう時間の余裕すらない。
 しばらく考え込んだあとに、結局、里奈に打ってもらうことにした。
「わかったよ、じゃあ、今度行くから、そのときに結果を聞かせてね」ケンは怪訝そうに答えた。
「がっつり稼ぐから、ご心配なく」
「大丈夫、お金もったまま逃げたりしないから、利子とかつけられたくないかんね」里奈はそう言い返した。ケンは周りの視線が気になり始めさっさとその場を去った。
「なんつー、やつだ」ぶつくさと独り言を言いながらバイクにまたがった。トイレに行きたかったことなど、とうに忘れてしまった。
 204番台と、微笑みながら打つ里奈を遠くから眺めていたケンであった。6時を数分すぎたころだった――。

第10章 雀荘
 カチッ、カチッ。
「ふー」
 パチンコ屋で初めて先生を見かけたときと同じ、右手はその左腕のひじの下を支えるようにして、メンソールたばこを不機嫌そうに吸っていた。
 午後8時34分。そろそろお腹も空いてきたが、誰もそのことについては触れなかった。このまま深夜まで続けるつもりだろう。
「ちょっと休憩、しませんか?」アイが先生の方を見ながらそう聞いた。
「そうね、一息入れましょうか」
 先生はお茶台の下に置いてあったハンドバックを持って、化粧室の方に歩いていった。
 しばらく沈黙のあと、
「ケンくんは大学生だったよね。彼女はいるのかい?」先生のご主人がいきなり尋ねた。
「あ、いやいません。残念ながら」
 ケンはうつむき加減にそう答えると、目の前にアイがいることを意識した。
「そうか。おれは若いころはいつも5人ぐらい彼女がいたもんだよ、はははっ」先生のご主人は胸を張りながら笑っていた。
「え~、茂さんてそんなにもてたんですか~?」アイがご主人に笑いながら聞いた。
「ん?」
 今アイちゃんは先生のご主人のことを『茂さん』と親しげに呼んだように聞こえたが……。ケンは少し違和感を感じたが、まさか先生のご主人とアイちゃんができているなんて考えられない。
 ケンは動揺を表情に出さないように気をつけながら、オシボリを手の中に収めた。
 カッ、カッ、カッ。
「おまちどおさま」
 相変わらず先生は機嫌が良くないようだ。アイちゃんのほうに視線を向けると、
「だいぶ、慣れてきたようね、麻雀」
「え、あっ、はい」アイは一瞬、青ざめた表情で答えた。
「ま、あんまり調子にのると、ドカンと当たることがあるから、気をつけたほうがいいわよ」
 先生の視線はご主人の方に移っていた。ケンはあまり気がつかないようなふりをしながら、
「じゃ、やりましょう、僕も挽回しなきゃ。スロースターターの本領発揮ですよ」
 無理やり場を和ませた。ご主人とアイはあえて視線が交わらないように、手前の自動掻き混ぜ機の中に牌を滑り込ませた。
 ウィーン。牌がスタンバイされた。
「場所は、同じでいいわよね」
 自分の山を幾分か前方にずらしながら、先生はサイコロのボタンを既に押していた。サロンの経営者だけにサバキが早い。
「ケンくんが親ね」
 後半戦が始まった。右手もとに置かれた百点棒を確認しながら、
 ケンは、五萬を捨牌し「一萬、チー」
「ソメ、チャンタ系かい」ご主人がケンを不思議そうに見ながら聞いた。
「安上がり、安上がり」
 ケンはそれだけ言い返し、最終形として字牌待ちが頭の中にあった。
「リーチ」ご主人はリーチ棒をケンの手前に放り投げて『発』を捨牌した。
「ロン!」倒牌しながらケンが言った。
「単騎かよ」ご主人は唸った。
「チャンタ・ドラ1、2千のニックーです。あ、あと2本場なので――」
 東1局3本場。牌パイでリャンシャンテン。
 ほぼアラジンチャンスに突入した、ビッグボーナスを引かないようにしよう。
「そういえば、ケンくんとアイちゃんはどうなのよ」
「ブッ」先生の質問に、ケンは思わず吹いた。
「どうって?」
「だから、どこまでいったのよ?」先生の質問相手の意識は『茂さん』の方にも向かっているようだ。
「え~ 先生ったら、そんなことしてませんよ、もう」アイが照れるように答えた。
「そうなの――、若いうちは『清い』交際を、たくさんした方がいいのよ」先生は念を押すようにアイを見つめた。
「まあまあ、アイちゃんにも恋愛する自由ってものがあるだろうに」そう言ってなだめる『茂さん』をよそに、先生はアイに鋭い視線を向けた。
「人間としての、モ・ラ・ルってのも身につけないと、いいエステティシャンにはなれないわよ」
 気のせいかアイの手は僅かに震えていた。
「東ポン!」上家から出た。
「もう、早あがり早あがり」ケンは『南』を捨牌した。
「ポン!」下家の『茂さん』が哭いた。
「リーチです」何順か過ぎた後、アイがリーチ棒を目の前に丁寧に置いた。
「あら、がんばるのね」先生がねっとりとした口調で言うと、
「私にも、意地がありますから」とアイが言い返した。
「そう」とだけ先生は答えた。
 ケンはというとさっきからテンパッてはいるものの、ツモれないし、だれも振り込まない。明らかにソウズの染め手。「えいっ」気合を込めてツモった。
 嫌な牌をツモってきた。あがり牌の隣の『サンソウ』だ。手変わりはなくはない、ただイーシャンテンに逆戻り、しかもフリテンしそうな気配。対面のアイからリーチがかかっている。捨牌からソウズかマンズの下付近か。下家の『茂さん』も南を2哭きしている。 そろそろ親を流そうとしているのだろうか。
「これは?」アイの顔色を伺いながら、ケンはその『サンソウ』を捨牌した。
「へー通すのかー」『茂さん』はそう言うと、ツモ牌の九マンをそのまま捨牌した。
 アイは手を合わせて願うようなかわいらしいしぐさとともにツモり、その牌をそのまま河に捨牌した。
「何なのよ」先生は怪訝そうに言った。
「じゃはい」と言って『サンソウ』を捨牌した。
「あっそれ、当たりです、すみません」アイは人差し指を先生の捨てた牌に向けて、申し訳なさそうに呟いた。
「ちょっと、何それ!」先生はアイの方に鋭い視線を向けた。
「えっ、すっ、すみませんっ」アイは本当に驚いていた。
「だって、ケンくんのさっきの『サンソウ』で当たりじゃない!」先生の目はいつもよりも釣りあがっていた。
「あっ」アイは思わず左手を口に当てた。
「多分、わざとじゃないだろう、そんなに怒るなよ」『茂さん』は先生をなだめた。
 ぶつぶつ文句を言っている先生をよそに、
「じゃアイちゃん、あとはツモでしか上がれないけど、チョンボじゃないから安心して」
 そう言いながらツモるケンだった。結局、その場は流局してしまった。
 アイちゃんの『見逃し』から、先生のアイに対する態度はますます悪くなった。
「先生、わざとじゃないんだし、そんなに――」ケンは先生をなだめた。
「初心者なんだし、まずアイちゃんにそんなことできるわけないだろう」『茂さん』は先生と同時にアイにも念を押すような言い方をしていた。
「何か先生に悪いことしたみたいで……すみません」アイはほとんど泣きそうな顔をしていた。
「いいのよ、別に、たいしたことじゃないから」
 先生は若いアイの味方ばかりする男たちに嫉妬しているのか、口をへの字に曲げて黙りこくってしまった。
 それからと言うものの、先生の安上がりの連発に誰も文句が言えず、さくさくと場が過ぎていった。結局、先生の独り勝ちでその日は終了した。
 先生はというと、当初の思惑がまったく別の方向に働いてしまったことを後悔していた。
 ケンは、アイの『茂さん』という言葉だけが、頭の中をぐるぐると回っていた。
 午後11時すぎ。
 最後に清掃されてから何年も経過してそうな窓から、たばこの煙だろうか、部屋の中のうす灰色のモヤが透けて見えた。
 そんなに遠くない場所から救急車のサイレンの音が聞こえた、何かあったのだろうか。夜の繁華街ともなると、毎晩のようにトラブルが起こっている。ケンは今晩のサイレンも、いつものことであるかのような感覚で聞いていた。代打ちを頼んでいた里奈のことなど、まったく頭にないケンであった。

第11章 再び
 次の日の午前。ケンは早速、里奈の働いているところへと向かった。当然アラジンチャンスの結果と、さらにその勝利金を頂こうと思っていたからだ。昨日の麻雀の疲れからか、いつもより頭がぼーっとしていた。
 ざっ、ざっ、ざっ。古ぼけた二階建てのアパートの真ん中付近にある階段をのぼった。昨晩の麻雀の負けなんてどうってことない、あの台の勢いからして、まったく比にならないほどのコインが出たのではないかと一人妄想していた。
「すみませーん」階段の一番上、待合室の手前でそう言った。
「……」 
「早すぎたのかな? でも開いてるみたいだし……」
「すいませ~ん」さっきよりも少し大きな声を出した。しばらくして、
「……はぁ……」
「だれ~?」
 一番手前の部屋から30歳ぐらいの女性が顔を出した。
「あ、あの……、里奈さんはいらっしゃいますか?」
 ケンがそう尋ねると、その女性はそれまで眠そうにしていた目を一転させて『キッ』とケンの方を睨みつけた。疑いの目、もしくは相手を威嚇するような、そんなきつい目つきであった。
「……」彼女はケンの顔を直視して何も言わなかった。
「あの、今日はお休みですか?」ケンがもう一度たずねた。
「――あんた、誰?」その30近い女がケンに聞いた。
「あっ、あのう、里奈さんの知り合いです、一応」そう言い返した。
「……」
 いくらかの間をおいた後、
「里奈は今、病院だよ」
「病院?」ケンは首を少し傾けると、聞き返した。
「ああ、なんか朝早くから、近くの病院の看護婦さんから電話があったんだ」
「里奈の財布からここの連絡先を見つけたんだろうね、里奈には親兄弟もいないし……」
 その女は、里奈のことを哀れむように思い浮かべながらそう呟いた。
「そ、そうですか……」
「どこか具合でも悪かったのかな?」ケンは首を傾げた。
「なんせ、昨日の夜中に病院に担ぎ込まれたらしいんだ」
 その女は続けて、
「そんで、今朝一番に病院から電話さ」
 しばらく沈黙のあと、女は突然、つぶやくようにケンに聞いた。
「昨日の夜、そこのパチンコ屋の近くで事件かなんかあったらしいんだけど」
「あんた、何か知ってるかい?」
 女はそう言うと、ケンがどのような反応するか、観察しているような感じであった。 ケンのことを暗に非難しているようなそんな目つきだ。ケンは『ドキッ』とした。ゴクリと唾を飲み込んだ。ケンの顔が青白く変化した。
「まさか……」
 しばらく呆然としていたケンは、
「実は昨日、里奈さんに僕の代わりにスロットを打ってもらったんです」
「それで今日、その――」
 女は、それまでケンに向けていた鋭い視線を一旦はずすと、
「何時ごろ?」目を細めて静かに聞いた。
「夕方に代わってもらって、多分あの調子でアラチャンが続けば、閉店までは……」
「……」
「そう……」その女はため息まじりに言った。
「昨日の夜10時半すぎぐらいに、パチンコ屋の景品交換所の近くで暴行事件があったらしいんだ。誰が被害者かは詳しく知んないけどさ、何せパチスロでたいそう勝ったらしくて――。それが狙いだったのかもしれねえな」
「昨日の夜、警察が聞きに来たよ。あやしい人間を見かけなかったかって」女はケンの顔をまっすぐに見ていた。ケンは『ガツン』と頭を一発殴られたかのような衝撃を受けた。
 まさか――。信じたくはないが、場所と時間、それにあれだけの……。
 夕方に入ったアラチャンがあのまま閉店まで続いたとすると、里奈はケンの代わりに閉店まで打っていたはずだ。女の子が一人で繁華街近くのパチンコ屋を、夜になってうろついているのも珍しいのに、たった一人でアラジンを打っていた。おまけに、それで大儲けしたとなると、大負けしたやつらが何かをやらかす可能性もある。腹いせにお金だけ奪われたのならどうってことないだろう。しかし今、里奈は病院にいる、何かあったに違いない。ケンはそう考えずにはいられなかった。
「あっあの、なっ なんていう病院ですかっ!」
 ケンは慌ててその女に聞いた。

第12章 事件
 キキー、ドンッ!
 ケンのバイクは、病院の玄関入り口のすぐ横の白い壁にあたって止まった。
 ガー。入り口の自動ドアが開いた。土曜日のせいだろうか、えらい込んでいる。病院独特のにおいが『むわっ』と迫ってくる感じだった。
「あっ、すみませんっ!」
 受付に並んでいる人のあまりの多さに、そこで待つことを避けたケンは、少し前を横切って過ぎようとした年配の看護婦さんに言い寄った。
「すっ すいませんっ!」ケンは少し大きな声でたずねた。
「あ、はいっ」看護婦は、ケンの顔をまじまじと見た。
「あのー 昨日こちらに『里奈』っていう女性が運ばれてきたと思うんですけど」
「えーと、里奈さん?」看護婦はしばらく考えた。
「苗字はご存知ですか?」
「あ、いや、詳しくは知らないんですけど……。とにかく、昨日の深夜に、若い女性がこちらの病院に運ばれてきたはずなんです」ケンはそう説明した。
「あっ、昨日の事件の!」
 看護婦は驚き、そのあと周りを気にするかのように、目をきょろきょろさせた。
「やはりこちらにいますか?」ケンは少し安堵した感じで聞き返した。
「ええ、まあ……」看護婦はケンと目を合わさない。
「あのう、いちおう警察の取調べ中ですし、詳しくは言えませんけど――」看護婦は言葉を濁した。
「聞くところによるとその女の子、犯人にお金を奪われそうになった上に、暴行されたらしいんです。でもお金だけは必死で取られないようにがんばったみたいで……」
 ケンの頭の中は真っ白になった。きのうの夜、里奈は暴漢に逢った、それも勝ったお金をケンに渡すために。里奈のいる部屋の番号だけ聞くと、ぼうぜんとしたまま、その場からふらふらと前方に歩いた。
 まさか、里奈が――。信じられなかった、ケンにとってはいつも通る場所だ。そんなことが起きるなんて、まったく予想していなかった。自分の愚かさと、昨日したことへの浅はかさを悔やんだ。
 ケンはさっきの看護婦から聞いた部屋の番号を、ぶつぶつと繰り返しつぶやきながら、一方では、きのうの里奈がスロットを打つ姿を思い浮かべながら歩いていった。

第13章 部屋
 3階の一番奥の部屋の前まで来た。扉は閉まっている。部屋の中の電気はついているが静かである、寝ているのだろうか。
 コン、コン。ドアをノックした。
「はいっ」里奈とは違う女性の声がした。ドアを開けると、そこには年配の看護婦さんが付き添って里奈を看病していた。
「ご家族の方ですか?」
「あ、いや、違いますけど……」
 やさしそうな感じの看護婦さんは、
「お友達ですか、今は寝ていますけど、もう少ししたら目を覚ますと思いますよ」
「お大事に、どうぞ」そう言って丁寧にお辞儀をすると、その部屋を出て行った。
「……」
 里奈の顔には、殴られたのか痛々しい傷痕が何箇所も残っていた。
「俺が里奈にあんなことを頼みさえしなければ」
 ケンの心は里奈に対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 昨日あの台さえ打っていなければと後悔したことは今まで何十回も経験した。しかしながら、昨日アラジンをあの時打ったことを後悔している今回と、それらとでは全く比べものにならない。いや、そういう次元の問題ではなかった。
「うっ、う~ん」
 悪い夢でも見ているのだろうか、里奈がうなされていた。小さなあごから首筋にかけて、うっすらと汗をかいている。目の周りとほっぺたの付近が、赤く腫れあがっている。
 女の子だけになおさら痛々しい。
「ごっ、ごめん、代打ちなんて頼んだばかりに」
 椅子に座ったまま、ケンは頭を下げてそのまま目を閉じた。
「あっ、ケ……」僅かに里奈の目が開いた。
 ケンはすぐさま頭を上げると、里奈の顔を見た。里奈は、一瞬、何かを考えるようなしぐさをしたあと、
「ぇ……」里奈の口元が少しだけ笑った。
 ケンは里奈の意識が戻ったこと、そして何より里奈がケンのことを見て微笑んでくれたことが素直にうれしかった。
 里奈はしばらくケンの顔をまじまじと見つめていた。
「ごめん、こんなに なっ――」
 里奈はそう言うと、今度はくしゃくしゃになった数枚の万札を取り出した。
「きの……さ、すごっよ、あの」
 僅かに開くことの出来る目のすき間から、里奈の無邪気な少女のように輝いた瞳がケンに向けられた。
「来て……れて、あがと」
 里奈は『すっ』と目を閉じた。
「おっ、おい、里奈!」
 里奈の体を揺すったが返事がない。
「すいません、看護婦さんっ!」
 隣の部屋にいたさっきの看護婦を呼んだ。
「里奈の様子が――」
 その看護婦は急いで医者の先生を呼んで来てくれた。
「ちょっといいですか?」
 先生は里奈の胸部に聴診器を当てた。首の周りから胸にかけてアザがある。さらに腕にもコンクリート壁でこすったような痛々しい傷跡が残っている。ケンは思わず目を背けた。
「もうしばらく休ませてあげて下さい」
 先生は安心した面持ちでケンに言った。
「そっ、そうですか」
「ふーっ」
 ケンは一旦、胸をなでおろした。

第14章 コイン
 どれくらい経ったのだろう。ケンは椅子に座ったまま寝てしまったみたいだ。
 窓の外には、きらびやかに流れるネオンの光、その中でもパチンコ屋のネオンがいちばん派手やかな印象を与えた。しかし、今、この病室から見たこのネオンは、ケンにとって忘れたくても忘れられないものとなってしまった。
「何て――」ゆっくりと目を閉じた。
「ケ……ン」里奈が目を覚ました。
「里奈、ごめん」
「俺が、あんなことを頼んだばっかりに」
「いいよ、私から言ったん――」
「お金こんなに、なっちゃった」
 里奈は手元にあった、くしゃくしゃになったお札をとり出してそう言った。
「いいよもう、こんなもの!」
 ケンは、それらの万札を棚の上に乱暴に置いた。すると、くしゃくしゃになった万札の隙間から一枚のコインが棚の上に転がってきた。
 『パチンコパーラー7』
 昨日のパチンコ店の名前が彫ってある。そのまま甲高い音とともに、床に転がり落ちるコイン。ケンは何ともいえない感情が湧いてくるのを感じながら、そのコインを拾いポケットにしまい込んだ。しばらくして、
「ね……私、『ケン』って呼んでもいい?」里奈は哀願するようにケンにつぶやいた。
「うん」里奈はうれしそうに微笑んだ。
「あたしね、ケンの代わりに……あの台打って、なんか、嬉しかった」
 里奈はケンに対して背中が向くように寝返りをうった。
「でも、けっきょく、なんなっちゃって」里奈の目は涙でいっぱいになった。
「どうせ、売女だからって……そう思われたって、しょうがないけど」
「くやしいよ」
「ごほっ、ごほ……ぐしゅしゅ」
 流した涙を手の甲で吹きながら、里奈の背中が丸くなった。
 後で聞いた話によると、売春宿で働く里奈のことを知っていた男が、スロットで大勝ちしている里奈を見かけ、現金に換金した里奈の後をつけて暴行したらしい。最初は茶化すつもりで里奈に声を掛けたらしいのだが、里奈の冷たい態度に男が腹を立てたようだ。
 里奈は、数日後に退院した。
 顔や体に若干の傷跡が残ったものの、後遺症となるような怪我までは負わなかったのがせめてもの救いだった。しかしながら里奈の精神的なショックは相当なもので、その事件のあとに、そのとき働いていた所は辞めた。
 里奈はケンになにも言わずにその街を去った。特に身内のない里奈がその後どうなったかはケンにも分からなかった。

第15章 終了(約1ヵ月後)
 ケンはというと、あの事件以来、パチスロは打たなくなった。いやパチンコ店にすら入らなくなった。それまで目が覚めていた9時半は、すでに大学の講義室で授業を聞いている時間となっていた。10時前に講義を抜け出す連中をよそ目に、もくもくと板書をとるケン。毎日まじめに大学に通うにつれ、自然と新しい友達もできた。3年ともなると、来年の就職活動に向けて今から準備をしなくてはならない。今まで授業にほとんど出席していなかったケンにとってはつらい毎日ではあったけれど、失いかけていた将来への希望も僅かながら湧いてきていた。
 パチンコ店というひと時の逃避場へは、もう足を踏み入れることはないだろう。そして、ケンも就職を機にこの街を離れることにした。
「肌ざむくなってきた」
 ケンは、窓越しに外の枯葉の舞う並木道を傍観しながら呟いた。

第16章 そして(約3年後)
 ある会社のオフィス。向かって正面に座っている課長のデスクの前。
「河村君、この資料のここを直しといてくれないか」
「はい、分かりました。じゃあ、終わったら先方にファックス入れときますんで」
 ケンは課長にそう言って自分のデスクに戻った。
「おう、そいじゃよろしく」
 ケンはなんとか大学を卒業し、学生の頃とは幾分はなれた場所にある企業に就職した。
 まだ新人のため、電話取りや、雑用、飲み会の幹事などもやらされている。さらに土・日休みはほとんどないと言ってもいいぐらい多忙な毎日を送っている。パチスロに明け暮れていた学生の頃とは大違いだ。
 就職してからというものの、パチンコ、スロット、麻雀などのギャンブルはまったくやっていない。学生のころに比べて自由になるお金もだいぶある、なのに頭の中にはこれらの言葉のカケラすら入っていない。パチンコ屋の前を通り過ぎてもまったく無関心でいられる。
「バカみたいだったな―」ただそう思うだけだった。
 明日、いや正確には今日までの資料を書き上げなくてはならないという日の深夜、ケンはいったんシャワーでも浴びようと、自宅のマンションに帰るためタクシーを捕まえることにした。午前2時45分、終電というよりむしろ始電に近い時間だ。
 こんな時間にはタクシーもなかなか止まってくれない。
「くそっ」
 ケンは手を挙げ続けながら、タクシーが来るのを待った。しばらくすると、反対側の車線からUターンしたタクシーがケンの目の前に停車した。後部のドアが開いた。
「どうぞー」運転手の声が聞こえたのでそそくさと乗った。
「どちらまで?」運転手がそう聞いてきた。
「近いですけど、日の出通りの近くまで」
「はい」運転手は返事だけして車を発進させた。
「たいへんですね、こんな遅くに」
 自分と同じように、こんなに遅くまで働いている運転手に同情するかのように言った。
「ええ、お兄さんお若いんですね。会社入りたてですか?」
 珍しい女性の運転手であった。それも30手前ぐらいだろうか、声の調子からそう推測した。
「ええ、忙しくて、もう」ケンは思わず運転手に向かって愚痴った。
 それからしばらくすると、タクシーの走っている道路沿いに住んでいるマンションらしき建物が見えた。こんな真っ暗い夜だからであろうか、いつも見慣れた建物なのにあまり印象に残っていない。何度も顔をきょろきょろとさせながら、やっぱりここだと思い、
「あっ、そこの建物の前でいいですか」
 会社から自宅までさほど遠くないため、すぐに着いてしまったみたいだ。
「サービスしておきますよ」
 運転手はルームミラー越しにこちらを見た。
 ケンは、タクシーでは聞きなれないその言葉に一瞬、首を傾げた。
 ケンはバックミラー越しに運転手と目が合うと、何年か前にも見たその鋭い視線を思い出した。ケンは、まさかと思った。それとも気のせいだろうか?
「里奈?」
 そう聞こうか、聞くまいか、ためらっていた。とにかく運転手の顔が、はっきりと見えるような体勢に体をのけぞらせた。
「名前だけ教えて」
 運転手は半分冗談っぽく言って振り返ると、ケンに満面の笑みで微笑んだ。
 やっぱり、そうだ!
 里奈がこんな近くでタクシーの運転手をしていたなんて。ケンは昔の学生時代の暮らしぶりを一気に思い出した。
 里奈は、あの事件の後、売春宿をやめたその足で、そのまま駅に向かった。電車に揺られて、たどり着いた駅がこの近くだったらしい。
 初めは住み込みのバイトでこつこつとお金を稼ぎ、最近タクシーの免許を取ったのだと言う。結婚はまだしていないみたいだ。それなりの暮らしをしており、以前よりだいぶ健康的になったと笑っていた。
 ギャンブルの話はしなかった。
 里奈もケンのその変貌ぶりに、そんな過去の話など聞いても無駄だとわかったのだろう。
 ケンは、今日中に先方に提出しなくてはいけない資料のことなど、まったく忘れていた。いや、資料のことなどもうどうでも良かった。とりあえず今日はもう会社には行かないだろう。課長が先方のクライアントに怒鳴られることはゆうに想像ができた。
 ケンと里奈は、そのままタクシーに乗って海岸通りの方に向かっていった。

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