私が大手法律事務所(MHM)を辞めた理由 第1部・経緯編(無料版)
弁護士の宇賀神崇(うがじんたかし)と申します。私は、日本の四大法律事務所の一つである森・濱田松本法律事務所(MHM)を2022年末に退所し、翌2023年1月に「宇賀神国際法律事務所」を独立開業しました。
私は、MHM退所当時は弁護士経験9年目のシニアアソシエイトであり、パートナーへの昇格が見え始める年次でしたから、そんなタイミングで四大法律事務所のパートナーとなる道を捨ててしまう選択をすることは、一般には奇異に映るかもしれません。しかも、あろうことか、四大法律事務所を辞めていきなり独立するような「無謀」な弁護士は、昨今ほとんどいません。
こうした珍しい(無謀な)キャリア選択をする弁護士は極めて少ないこともあって、「なんでMHM辞めたんですか?」といつも聞かれます。相当長い間逡巡した上での決断でしたので、MHMを辞めた理由として語れることはいくらでもあり、聞かれる都度いろいろ答えてきました。もっとも、答えるたびに微妙に答えることが違うなと自覚することがあり、あまり自分の中でも整理しきれていないように感じてきました。
そこで、今一度、私がMHMを辞めた理由を文章に整理して、こうしてまとめてみようと思います。読む方にとってはとても面白く知りたいけれど、広く一般に公開することが妥当ではない事情もあるので、そういう個所は有料の記事である「完全版」に落として、本当に真摯に読んでくださる方のみに打ち明けることにしたいと思います(別にお金が欲しいということではなく、茶化したりせず真摯に受け止めていただける方のみに見ていただくためです)。
1 MHMを辞めると決断するまでの経緯
MHMを辞めた理由を語る前に、MHMを辞めるという決断をするに至った経緯を説明しておくことにします。その方が分かりやすいからです。
(1)MHM入所(2014年)前後
私がMHMに入所したのは2014年1月です(修習期は66期)。入所前から、MHMにずっと在籍し続けるという前提で物事を考えてはいませんでした。というより、MHMでパートナーになるにしろ、移籍するにしろ独立するにしろ、弁護士として生きていくのであれば、①仕事をとってきて、②仕事をこなす、という2つが両方とも必要なのは本質的に同じだと思っていました。その意味で、MHMを辞めようが辞めまいがそれほど大きな違いではないと漠然と考えていた、といったほうがよいかもしれません。
(2)MHM4年目(2017年)
転機は、2017年、私が弁護士4年目の頃です。
(この個所は「完全版」のみ)
弁護士4年目の冬に執筆し、5年目の2018年1月にNIBEN Frontierという雑誌に掲載された私の文章「弁護士の思春期」は、あの頃の私の偽らざる心情をありのまま表現していますので、別の記事として転載しました。
(3)MHM5年目(2018年)
2017年は本当につらく踏んだり蹴ったりな1年でしたが、2018年(弁護士5年目)に入ると、私の人生は一気に楽しくなります。
2018年1月、米国ワシントンDCにあるジョージタウン大学のLLMプログラムに期限ぎりぎりで出願したところ、なんと1週間でadmission(合格内定)が出ました(!)。普通はadmissionが出るまでに数か月待たされることが普通ですので、ほとんど奇跡です。
admissionが出たのでそれ以上TOEFLを受ける必要もなくなり、英語の勉強から一気に解放されたため、また仕事に全力投球できる環境が整いました。2018年の7月に留学に旅立つことになるのですが、それまでの半年間、自分一人で担当してきた訴訟を独力で和解で終わらせることができたり、規模の大きな集団訴訟の主張を組み立て、その後の訴訟の趨勢を決定づける役割を担ったりするなど、自分の中で弁護士業務の手ごたえをつかみ始め、大変な充実感を感じていました。
(4)留学・研修(2018~2020年)
2018年7月以降、米国ワシントンDCにあるジョージタウン大学のLLMプログラムで学びました。それまでとは打って変わって時間がたっぷりできたので、まずは十二分に睡眠をとって睡眠負債を一括返済した上、勉強と妻との時間を持ちつつ(妻も同じ大学に留学したのです)、自分の来し方行く末を考えることにしました。
つい1年前には、MHMを恨みに思い、辞めてやろうと心に決めていましたが、睡眠負債をチャラにして冷静に考えてみると、単に睡眠が足りてなかったからではないかという気もしてきて、そうした気持ちは弱くなったことは事実です。そうかといって、もともとMHMにずっと居続けると心に決めて入所したわけでもありません。ひとりの弁護士として今後どのように生きていくのか、フラットに、ゼロベースから考えてみようと思いました。
大きく分けて、以下の4つの選択肢があるだろうと考えました。
① MHMに残る
② 別の事務所に移籍する
③ 独立する
④ インハウスに転身する
このうち、④インハウスについては、留学前からプライベートプラクティスが面白いなと思っていたので、相対的にはあまりイメージできず、残りの3つが現実的かなと思いました。
2019年9月以降、私は、香港のローカル事務所であるGall Solicitorsで研修をすることになりました。ここでの経験が、上記の選択肢のどれを選ぶか判断するうえで大変重要な材料をもたらしてくれました。
Gall Solicitorsは、当時弁護士数が20人弱程度の紛争解決専門のブティック事務所です。トップのNick Gallがオーストラリア人であり、香港人ソリシターのみならずインド系、イングランド系のソリシターも所属し、ローカルな事務所といいつつかなり国際色豊かなのですが、日本人を受け入れるのは私が最初でした。事務所全体として新規顧客獲得のための諸活動(例えば、外部とのランチやディナー、セミナーなど)を推奨する雰囲気が強かったこともあって、私は、日本人・日本企業の新規顧客開拓のための営業活動に力を入れました。今にして思えば、弁護士としての営業活動とはどういうものか、肌身で体感する最初の貴重な経験でした。
本当にいろいろなことをしました。香港法に絡めたセミナーを何個も企画し、実行しました。香港にいる間に実施したセミナーは、8回を超えます。このうち、2020年6月末に突如公布された香港国家安全維持法の内容とリスクを2週間後に解説したセミナー『香港国家安全法のビジネス実務上の留意点』(香港日本人商工会議所)は、300~400名程度の参加者があり、最多記録を更新したという話を記憶しています。
在香港の日本人や香港ソリシターと何度も飲茶したり飲み会したりしました。香港にいる人の気質にビジネスがビルトインされているなと思うのは、新しい人を紹介しあう文化があることです。例えば、私がある人Aと飲茶をするとします。その後、Aさんとまた飲茶をする際には、今度はAさんがBさんを連れてきて一緒にランチします。そこでBさんと知り合うと、その後Bさんとさらに飲茶をする機会があり、そこでまたCさんと知り合う、といった感じです。ですから、香港で飲茶をするだけで、人脈が広がっていくことになります。もちろん、自分が紹介されるだけではだめで、次に会うときに新しく紹介できる人はいないかな、と私も考えながら飲茶をするのです。何も考えずに会食しているだけではダメなのですね。ともあれ、おかげで、香港では本当に数多くの得難い友人を得ることができました。これが、今でも生きています。
在香港の日本企業の支店を訪問したり、Gallの同僚と共に日本に出張して東京の法律事務所を訪問したこともあります。知り合いの紹介で訪問することもあれば、文字通りウェブページから飛び込みでコンタクトしたような先もあります。弁護士に対するニーズがあるのかないのか、あるとしてどのようなニーズがあるのかを探るには、こうして話を聞くことがとても有益なことだと思いました。
Gallの事務所の英文ニュースレターを、日本語に翻訳して日本語版を掲載するという仕事もしました。こうした営業方法があることを体得するのと同時に、ピュア・コモンロー法域である香港法の考え方を、翻訳を通して理解する機会を得たことはとても有益でした。
こうした種々の営業活動が、実際に案件の受注につながった例はそれほど多いわけではありませんでした。弁護士の営業というのは、とても地道で、案件受注につながるまでには数年かかることを、身をもって知ることになりました。しかしそれでも、私が香港で実践した営業活動は、率直に言ってとてもエキサイティングで、楽しかったです。
営業活動が楽しいなら、③独立してもよいかな、と漠然と考えるようになりました。曲がりなりにも英語圏で英語で仕事をしておりましたから、仮に私が独立するのだとすれば、広く海外のクライアントに対してリーガルサービスを提供する事務所にしたいな、と思いました。事務所の名前を少し考えてみると、クロスボーダーな案件を取り扱う事務所であることを示しつつ、「Tokyo」という言葉なら外国人でも誰でも知っているので、「Tokyo International Law Firm」(東京国際法律事務所)というのが良いのではないか?と考えていました。調べてみると当時既に同名の事務所が存在しており、この案は諦めることになりましたが、ともあれ、自分の事務所を立ち上げることへの思いは日増しに強くなっていきました。
(5)MHM復帰後(2020~2022年)の充実した日々
香港での研修後は、MHMの北京オフィスにそのままスライドして駐在する予定でしたが、コロナの影響でいつまでもビザその他の手続が進まず、結局東京オフィスに復帰することになりました。2020年10月のことです。
この後、2年3か月MHMで働くことになるのですが、これがとても楽しく、充実感がありました。留学前には絶対に辞めてやろうと思っていましたから、自分でも意外でした。
まず、案件へのかかわり方が、留学前後で劇的に違います。留学前は、どのような案件でも自分で手を動かして書面をドラフトしたりロジ回りをこなしたりしなければなりませんでしたが、留学後は、そうした面倒で時間がかかる作業は若手アソシエイトに任せることができ、稼働時間は留学前に比べて劇的に少なくなりました。その分、若手アソシエイトの人繰り、指示指導、レビューなどのマネジメントの側面が強くなります。どのような若手アソシエイトがいるのか開拓し、それぞれの心をぐっと掴んだ上で、それぞれどのような案件を担当したいと思っているのか、能力や意欲はどの程度のものかなど、ひとりひとりの特性をじっくり見て、適切なタイミングで適切な案件をアサインし、ひとりひとりのアソシエイトの成長につながるようなやり方とタイミングでレビューを行い、成長感ややりがいを深めつつ、MHMの名にふさわしいハイクオリティなプロダクトを合理的タイムラインの中で仕上げていく。こうした高度なマネジメントが、留学後のシニアアソシエイトには求められますが、私はこれがたまらなく好きでした。
もちろん、私自身がファーストドラフトしたり手を動かす案件はありましたが、ここでも、自分で自分の成長をとても強く感じました。海外にいた2年間、日本語の準備書面など全く書いていなかったにもかかわらず、想定よりも短い時間でサラッと準備書面を書けてしまいますし、全体として論理的に説得的な文章を書けているなと、自分で感じるのです。英語で読み書きする際には、外国語であることも手伝って、ロジカルにスキなく考えないと書けないのですが、2年も海外にいて英語で仕事をしていたので、論理的に物事を考える、論理的な文章を書くとても良いトレーニングになったのだと思います。留学の思わぬ副産物でした。
絶妙なマネジメントと仕事をこなす速度の劇的な上昇で浮いた時間で、せっせせっせとセミナーや執筆活動、会食にいそしみました。登壇したセミナー数は、2021年は約22回、2022年は約20回と、概ね月2回弱程度のペースでした。書籍も、2020年以降10冊は刊行しております。海外から日本に帰国すると、日本で食べられる寿司のクオリティとリーズナブルな値段にびっくりしたので、私が会食する際には、決まってお寿司に行くことにしています。現在では、行きつけのお寿司屋さんが4~5件あり、順繰りで通っています。
(第2部・理由編その1へつづく)