私が大手法律事務所(MHM)を辞めた理由 第2部・理由編その1(無料版)

 弁護士の宇賀神崇(うがじんたかし)と申します。私は、日本の四大法律事務所の一つである森・濱田松本法律事務所(MHM)を2022年末に退所し、翌2023年1月に「宇賀神国際法律事務所」を独立開業しました。
 以下では、第1部に引き続き、私がMHMを辞めた理由を文章に整理して、こうしてまとめてみようと思います。読む方にとってはとても面白く知りたいけれど、広く一般に公開することが妥当ではない事情もあるので、そういう個所は有料の記事の「完全版」に落として、本当に真摯に読んでくださる方のみに打ち明けることにしたいと思います(別にお金が欲しいということではなく、茶化したりせず真摯に受け止めていただける方のみに見ていただくためです)。

2 MHMがベストではないと思った理由

 あまりにMHMでの仕事が楽しく充実していたので、もはやMHMを辞める理由などないと思えました。それでも、やはり冷静になってロジカルに考えると、MHMに残ってパートナーになることが、自分にとって最良の選択であるわけではないというのが、論理的帰結になるのでした。

(1)大きく裁量のない経費負担

 最も大きなネックだと思ったのは、MHMを含め、大手法律事務所の経費負担は大きく、かつ、それを個々のパートナーが左右する自由がないことです。

(この個所は「完全版」のみ)

(2)アソシエイトやスタッフの「適切なケア」の負担

 そして、弁護士もスタッフも、生身の人間なのですから、単にお金を払えばよいということではなく、適切にケアし続けなければ力を発揮してくれません。
 MHMの弁護士は、みな能力も意欲も高いというのが、私の偽らざる感想です。私の周りの弁護士に能力を最大限発揮してもらうためには、まず私と仕事を共にしたい、少なくとも仕事を共にしてやってもよいと思ってもらう必要がありますが、このためには、まず私を知ってもらわなければならないし、私を信頼できる人だ、なんでも気兼ねなく話せる人だと思ってもらう必要があります。こういう信頼関係を築くには、それなりのコミュニケーションが必要です。伝統的な飲みニケーションでもよいのですが、そういったものが現実的でないとか好きでない相手であれば、ランチでも、日々の雑談でも、定期的なウェブでの1on1でもよいので、相手の状況や要望に寄り添った形でコミュニケーションをとる必要があります。特に私の場合、留学前に種々の事情からうつ状態になり、MHMに救ってもらえなかった経験がありましたので、私の後輩にだけは同じような思いはしてほしくないという思いで、私の方から積極的にコミュニケーションをとり、ひとりひとりの若手アソシエイトの心身の状況をつぶさに把握するよう努めました。これは、同僚に充実して働いてもらうためには大変重要なことなのです。
 若手アソシエイトのプロダクトに対するフィードバックは、プラスのものでもマイナスのものでも、適時に行うことが必要です。私自身は、フィードバックといえば半期に1回のフィードバック面談でしか教えてくれないという実感を持っていましたが(実際には、適時にフィードバックしてくれていたのに、私が鈍感で気づかなかっただけかもしれませんが)、半年も後に言われても、そもそもどの案件のどの作業の話なのかも分からず、具体的に何をどう改善したらよいのかよくわかりませんでした。これではフィードバックの意味が乏しいですよね。
 プラスのフィードバックであれば、プロダクトをレビューする際に、内部コメントで「ぐっじょぶ!」「いい感じ!」などと簡単にでもこのポイントが良いと思った旨明示することにしていました。レビューしたプロダクトを返すメールカバーでプラスのコメントをすることもあります。もちろん、話をする機会を見つけて「あれは良かった!」と面と向かって感想を述べることがあります。私はこのように面と向かって褒められた経験があまりなかったものですから、これがどれだけうれしいことか、よくわかります。
 他方、ネガティブなフィードバックは気を使います。正しい指摘をすればよいということではなく、むしろ正論は人を過度に追い詰めるので、その内容やタイミング、やり方はとてもセンシティブに検討する必要があります。そもそも、ネガティブなフィードバックをしたいと思うときは、自分自身が感情的になっているだけで、その感情が過ぎ去って冷静に考えてみると実は大したことではないことも多いので、少なくとも一晩寝て、本当にネガティブなフィードバックをする必要があるのか、冷静に見極めます。そのうえで、時間をおいて冷めた目で考えてもやっぱりフィードバックしたほうがよいなと思った場合には、プロダクトの内部コメントやメールカバーでフィードバックの文章をドラフトするのですが、過度に落ち込ませずに、改善点を冷静に受け止めてもらうためにどうすればよいか、推敲に推敲を重ねます。事実や根拠に基づいた客観的な記述を心がけます。この過程の中で、実は自分の考え方の方が論理的ではなかったと気づくときもあります。文章では伝わらないなと思うときには、対面でもウェブ会議でも電話でもよいので、口頭で伝えることにします。そして、相手の状況によっては、忙しすぎてフィードバックを受け止める余裕がないとか、フィードバックをすることが適切ではないタイミングもありますから、そうしたことも考慮に入れなければなりません。さらに、ネガティブなフィードバックをしても、自分のことを考えて言ってくれているんだなと思ってもらうためには、日ごろからの信頼関係の構築が必須です。このように、ネガティブなフィードバックをするのはとても面倒なことなので、MHMのパートナーやシニアアソシエイトはネガティブなフィードバックをしなくなっている(あるいは、半期に1度のフィードバック面談でぶちまけるだけな)のが実情な気がしますが、ネガティブなことも含めてしっかりとフィードバックしないと、人は育たないと思います。
 スタッフの皆さんにも、感謝の気持ちを忘れず、感謝の気持ちが沸き起こる場面では、口頭やメールで「ありがとうございます」と明示的に感謝の気持ちを伝えるのを心がけていました。MHMにいると忘れがちになるのですが、MHMの弁護士は、秘書を含むスタッフがいなければ、事実上何の仕事もできないのです。日程調整や請求書の発行など、秘書の皆さんにお願いしているタスクは山のようにあり、それを弁護士自らやっていたら業務が回らなくなってしまいます。強制執行の手続など、弁護士よりもむしろ事務局の皆さんの方が詳しい仕事も多いのです。弁護士が業務に使っているパソコンさえ、ITチームの日々のメンテナンスがなければ動かなくなってしまいます。これだけのスペックを持った多くの人材に働いてもらえることが当たり前のものではないことは、私が事務所をゼロから作り上げることを現実的に考えれば考えるほど、痛いほどよくわかりました。
 ここまで書いてきて、私が考える弁護士やスタッフに対する「適切なケア」というものがどういうものか、お分かりいただけると嬉しいです。一つ一つのポイントは、一見当たり前だと思われるかもしれませんけれども、こういったことを毎日継続するのはかなり大変です。しかも、MHMには700名程度の弁護士と同程度のスタッフがいるわけであり、千人を優に超える方々ひとりひとりにこうした対応をすることは、途方もないことです。私は、MHMの72期の半分、73期の3分の1、74期の4分の1の弁護士と様々な交流をもって、これまで述べたような対応を実践してきたつもりですが、これだけでも数十人に上ってしまい、私1人で十分に対応できるキャパシティを超えています。

(この個所は「完全版」のみ)

 私がMHMのパートナーになってしまえば、「適切なケア」の大きな負担を(一人で)負い続けるか、逆にこういう当たり前の対応すらおざなりにするかであり、いずれにしても、私の本意とするところではありませんでした。

(3)何もかも自由になるわけではない

 負担ばかり大きい割に、MHMのパートナーが自分の裁量だけで決められることは、それほど多いわけではないのです。
 事務所全体としてどのような経費をどのくらいかけるかについて個々のパートナーに裁量がないというお話は前述しました。

(この個所は「完全版」のみ)

(4)大手事務所でパートナーとなるうま味を享受できるか?

 もちろん、高い経費を払ってでも、MHMの構成員に対する「適切なケア」の負担を負ってでも、なおMHMでパートナーとなるうま味は存在します。
 第1に、飛び切り優秀な若手弁護士やスタッフを大量に雇用できることです。タイムチャージを前提とすれば、優秀な若手弁護士やスタッフを大量に稼働させることができればできるほど、売上を上げることができます。もっとも、多くの弁護士を稼働させて売上を上げることができる案件類型というのは、不正調査、M&Aといった一部の分野に過ぎません。私が専門とする人事労務、香港・中国法務、国際紛争といった分野では、私自身の知識、経験、能力、人脈等が価値の源泉ですので、大量の弁護士を稼働させるという大手事務所向きな売上の上げ方になじまないのです。
 第2に、MHMには、各分野のスペシャリストがすべてそろっていますので、あらゆる問題をワンストップで解決できるという見せ方が可能です。これ自体がクライアントへのアピールポイントになるだけでなく、人手のかからない分野を専門とするパートナーであっても、自分のところに不正調査やM&Aといった大手事務所向きな案件が来れば、それを他の弁護士に丸投げして処理させることによって、売上を上げることが可能です。しかし、私は、自分のやりたい業務を突き詰めてやり続けたいだけであって、売上を上げるために自分の専門性も関心もない案件を間口広く受任することを目指すようなことには、あまり興味がもてませんでした。
 第3に、MHMというブランドを用いることができます。クライアントから見れば、このブランドの持つ力は大きいといえるでしょうし、こと若手パートナーであれば、このブランドを最大限活用して営業をしたいと思っても不思議ではありません。しかし、「捨てる神あれば拾う神あり」ということわざのとおり、MHMというブランドがあって初めて受任できる案件やクライアントがいるのと同様、MHMというブランドがあるがゆえに受任できない案件やクライアントがいるというのが実感です。私の経験を述べると、独立した後にある人から、「MHMにいたときは敷居が高くて頼みづらかったが、独立してくれたので気兼ねなく案件を紹介できるよ」などと言われたことがあります。実際に、独立前にも個人案件は増え始めていましたが、独立後の増加の方が圧倒的に多くなっています。MHMでパートナーになって営業するということは、敷居が高い、フィーが高いなどというポテンシャルクライアントのネガティブな先入観がある分、むしろ難易度が高くなる側面があることは、若手パートナーやパートナー一歩手前のシニアアソシエイト・カウンセルが留意する価値があるポイントだと思います。
 第4に、MHMだからこそ知的に面白い案件を受任することができる、MHMだからこそ自分よりも何倍も頭のいい弁護士と議論をすることができる、という思いで、(いろいろマイナス面はあれ)MHMに残っている弁護士は数多いと思います。
 ただ、MHMから出ても知的に面白い案件を受任することはできますので、これは思い込みの域を出ない考え方です。実際に私は、いわゆるフリーランス法や越境ワークなど自由な働き方の分野で、先例や先行研究に乏しい最先端な問題に日々取り組み続けています。
 また、MHMを出て行ったからといって、MHMの弁護士と議論できなくなるというわけでは全くありません。私は今でも、MHM在籍時代から持ち越した案件を抱えていますし、私一人では担当できない案件が来れば、MHMに紹介して共同受任してきましたので、今でも数多くの優秀な元同僚と一緒に仕事をする機会を得られます。実は今でも、MHMの弁護士と仕事の関係でメールのやり取りをしない日はないくらいです。
 それに加えて、MHMを辞めれば、MHMの外にいる能力も経験も識見も豊かな弁護士やその他の専門家と仕事を共にし議論することが可能となるので、むしろより多くの知的喜びを味わうことが可能です。MHMの中に閉じこもっていては、むしろ損でしょう。
 以上のように考えると、MHMでパートナーとなることのうま味は、絶無ではないものの、私にとっては、パートナーとなることに伴う負担を補って余りあるものとまでは考えられなかったのです。

(5)家庭との両立とタイムチャージ制の相克(2023/1/10追記)


(この個所は「完全版」のみ)

 いろいろ考えた結果、仕事と家庭を両立するのであれば、極端なハードワークを避ける必要があるし、根本的には大なり小なりタイムチャージ制から脱却していく必要があるので、やはりMHMでパートナーとなることはベストな選択でないというのが、私の結論でした。

第3部・理由編その2へつづく)

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