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モンターニュのつぶやき「脳も筋肉も鞭と飴が必要」 [令和3年5月23日]

[執筆日 : 令和3年5月23日]

 黒田龍之助さんの「外国語を学ぶための言語学の考え方」(中公新書)を読んで、言語学のイロハを学び、そして所謂専門用語も知り得たのですが、黒田さんという方、変わっていますね。浪漫主義言語学への志向があるようで、浪漫に惹かれる人は昨今日本人には少なさそうですので、今後の行方が気になります。昨日から中野剛志さんの「小林英雄の政治学」(文藝新書)読んでいるのですが、中野さんという人はこれまた凄い人ですね。知能指数がとても高そうな人です。
 人間というのは、ある面で幸せな生き物ではありますが、見方を変えると不幸な生き物だなあと。何故か。それは人は言葉を使用できることで、意思疎通が出来るとは言え、目の前の現実にしても、過去にあった事象も言葉では完全には表現できないし、そこそこで満足しながら言語というものを信頼して「社会的に」使っているけれど、人は皆それぞれに違う存在であり、「個人的」な言葉によって違う存在となっているからです。つまり、お互いに完全にはわかり得ない存在という、ちょっと淋しい関係で生きているということです。なお、小林秀雄は、思想・文学は個人的なものであって、政治・イデオロギーは社会的なもので、両者はお互いに介入しないのが良いという考えをもっていたようですが、言葉を考える上で面白い視点だなあと思います。
 さて、今日は、人と言葉という話よりも、身体に関するお話を。以前ご案内しましたが、樋口満さんの「体力の正体は筋肉」(集英社新書)に体力がどういうものかの説明がありましたので、それをご案内します。

体力の構成
体力=行動体力+防衛体力
行動体力=全身持久力、筋力、バランス能力(平衝性)、柔軟性、その他(敏捷性など)
防衛体力=病気・ストレスなどへの抵抗力、環境などへの適応力
(厚生労働省「食生活改善指導担当者研修テキスト)などをもとに作成)

 なお、国(家)を有機体的な、人間のような生物として見ると、今の日本はどうでしょう、専守防衛という言葉がかつてあった気がしますが、コロナ禍で露見しているのが、防衛力の逓減ではないでしょうか。日露戦争で陸軍兵士が脚気になって、バタバタ倒れて、これに対して陸軍本部は、森鴎外等がウイルス説だったかに固執して、適切な栄養(ビタミンB1)を取らないで多くの兵士が亡くなったことがあります(これは犠牲なのか、それとも殉死なのかという議論もありえますが)。このような非科学的な対応がデジャヴュのように、今の日本に見られる、そんな気がしております。
 しかしですね、最後に補足しますが、あのガリレオの地動説にしても、バチカンは天動説の否を認める、謝罪するということはない、ということです。個人として誤りを認めることは出来ても、組織、例えば教会もそうですが、国家が過去の誤りを認めるケースは基本的にないと思う方が正しい国家・組織認識ではないかと思うのですね。日本の場合、国家と政府の意志の区別が曖昧なのですが、いずれにしても、頭を下げたり、土下座したからと言って、国家組織が反省的に謝罪しているかどうかなんぞ、わかりません。そもそも国家の過ちを過ちであると認定する組織が国家の一組織なんですから。公平で正当な判断は出来ないでしょう。なお、カナダで、かつて第二次世界大戦前の日系移民に対して行った強制収容等の措置に対して、戦後、リドレス運動を受けて、謝罪し、損害賠償したのは国家として過ちを認めた、数少ない例の一つで、カナダが如何に開かれた国であるかを物語るでしょう。
 国が、そして人が生き延びるためには、科学理論も加味した柔軟な対応が求められるのに、今の日本は旧態然とした対応で、日本が変わるべき好機にもなる可能性のコロナ禍、そしてオリンピックですが、期待薄です。オリンピックは、この先何が起ころうとも政治的にやることが決まっているようですし、フランスのマクロン大統領は開会式においでになるとか。政治家というのは、概して政治的野心で生きている、集団の事(これだって、一部の利害関係者なんでしょうが)にしか関心がなく、個人の幸福というものは考慮することはないとした小林秀雄の言葉が浮かびます。

 閑話休題 人は齢を取ると、まっすぐ立つことが困難になりますが、それは、人間についている筋肉(筋)の、上から、僧帽筋、頭板状筋、頭長筋、半棘筋、胸鎖乳突筋、脊柱起立筋、腹横筋、腸腰筋、大臀筋、大腿四頭筋、ハムストリングス(太ももの裏の4つの筋)、前頚骨筋、下腿三頭筋(ふくらはぎにあるヒラメ筋など3つの筋)、後脛骨筋が劣るからです。筋肉を使わないでいると死にも至る病、サルコペニア(筋機能低下症候群、筋量減弱症候群)になる危険性があると言われるのは、ふくらはぎを両手の親指と人差し指で囲んだとき(指輪っかテスト)に、隙間のある人ですが、が私の場合は、囲めません、指が短いのかもしれませんが。
 日本は、防衛力的体力もそうですが、自転するための行動体力に必要な筋力が劣化しているようで、よくイノベーションという言葉を耳にしますが、社会を構成しているパーツの筋力を精査して、それにあった処方箋を、科学的に考案しないといけませんよね。
 また、運動機能が衰えると「ロコモティブシンドローム(運動器機能低下症候群)」になると言われますが、

 ①階段の上り下りに手すりが必要である、
 ②片脚で靴下が履けない、
 ③家の中でよくつまずいたり滑ったりする、
 ④15分くらい続けて歩けない、
 ⑤横断歩道を青信号で渡りきれない、
 ⑥2キロ程度の買い物をして持ち帰るのが困難、
 ⑦やや重い家事(掃除機がけ、布団の上げ下ろしなど)が困難である、

といった7つの項目で、一個でもあれば、ロコモのリスクがあるということです。
 私は、家の中では躓いたり、滑ったりはしませんが、外では、小さな段差に気が付かないで、時々、転びそうになりますが、人生ではつまずいたり、滑ったりは日常茶飯事です。転びそうになっても、転ばないようにする、或いは、転んでも怪我をしないように、受け身が出来るのが大事なのでしょうが、先日はこの受身的な行動が出来ずに、怪我をしたのですが、怪我をして、私はもう若くないなあと、実感した次第です。日本という国の身体の運動機能は、筋力の劣化に比例して、どんどん落ちているように思いますが、日本人の凄いところは、筋力や脳力の劣化を、文明の利器的道具を作って補う、謂わば補填的対応脳力は高いのですが、根本にある元凶を治す治療法は開発できないようで、今回のワクチンの自国生産の遅れもその一例でしょう。対処療法には優れているのが日本社会ですが、日本という国の骨や筋肉を強壮化することをしないできた、過去の怠慢さが今コロナ禍で露呈している、ということではないでしょうか。基礎力の増強なくして、国力の増強もないでしょう。つまり、中長期的視野に立ったプランは不要であるとのんきに機械的に処理可能な日本だと、高を括ってきたツケが今の日本にしてしまったということなんでしょう。

 でありますが、人間の筋力の場合は、これは何歳になっても高めることが出来るようで、筋肉は脳と同じで、怠けモノのようで、トレーニングをやめると、リバウンドして、元の木阿弥になります。トレーニングは、この筋肉の「可逆性」という性質、「反復性」によって効果があること、過負荷を与えることが重要であること、トレーニングは質的にも量的にも順番を追って行う「漸進性」があること、目的にあった適正なトレーニングによって効果が出ること(「特異性」と言います)、目的に対する意識の明確さが必要なこと、トレーニングの内容は個人個人によって違いがあること(「個別性」と言います)、そしてトレーニングによって得られる効果は年齢によって違いがあること(「適時性」と言います)を知っておくことも必要で、長く続けることが一番効果があることが解っています。
 ただ、「わかっているけど、辞められない」ではありませんが、「わかっているけど、続きません」が極々普通の人であります。何事も継続することが難しい訳で、そのためには、何か継続するためのご褒美を、つまり、飴と鞭のセットで考えないといけない訳です。
 トレーニングの飴は、我々は庶民でありますから、豪華なフルコースのフレンチやイタリアン、あるいは山海の珍味の中華料理、日本の高級和牛ステーキという訳にはまいりませんが、餌は健康的な食事ということです。
 が、しかしですね。筋力トレーニングとは真逆な人がいる訳です。その代表格が画家の梅原竜三郎。彼は、98歳で亡くなりますが、彼の健康の三ヵ条が、①寝酒を少量飲んでなるべく熟睡を計る、②日が長くなれば午睡する、③腹の減るのを待って九分目に食う、ことであったとか。そして、89歳の時の某新聞とのインタビューでは「食事は、朝はまあトーストにキャビアだ。昼は牛乳を主としたスープにバターを入れ、塩と胡椒をふりかけたもの。夜はウナギの蒲焼きに中華料理を三日に一度・・・」と答えていて、朝からストレートのスコッチウイスキーを飲み、ビフテキと鰻を好み、恐ろしいヘビースモーカーであった美食生活は晩年まで変わらなかったようです(山田風太郎「人間臨終図鑑 下」参照)。こういう健啖家がいると、一生懸命、健康食、つまりは粗食して、筋力をつけることの意義に疑問を抱く、いや、トレーニングそのものに虚しさも感じてしまいますよね。美食三昧でヘビースモーカーでも98歳まで生きる人もいれば、何の因果なのか、好きなお酒も煙草も我慢し、あれもそしてあれまでも我慢しての禁欲的な生活、そしてトレーニングをしても、50代であの世に逝く人もいるこの世の不公平さに、神も仏もないじゃないのと思わない人はいないと思いますが。如何でしょうか。

 梅原竜三郎が長生きした特別な理由があるかどうかは分かりませんが、人間の病気のほぼ9割はストレスが原因でありますので、画家は孤独とはいえ、創作活動によって外から入るストレスを遮断することが出来るので、梅原の場合には、そうしたストレスが少なかったのではないかとも言われます。要するにですね、トレーニングもストレスに感じてはいけないということです。私なんか、家内にしょっちゅう言われます「貴方はストレスなんて感じた事ないでしょ」って。確かに。鈍感ですから。それでも、たまには胸がちくちくするような、後ろめたい気持ちにもなりますし、全くストレスを感じない訳でもないのですが、こういう人間なので、他人と会話するのが不得手なのかもしれません、それで一人でランニングしたり、つぶやいているのかもしれません。日本人は他の国の人に比べて椅子に座っている時間がとても長いということが言われておりますが、筋力トレーニングで最適で最強なのは、櫓を漕ぐ運動(ローイング)のようですが、流石に誰でも出来ないでしょうが、せめて、背筋を伸ばして歩くこと、出来れば一日最低でも30分、出来れば1時間は外の空気を吸って、歩くことが一番の筋力増強法で、そして心の健康法ではないかと思います。

 最後に、昨日、ガリレオの話をしましたら、思想家の立花希一先生から、モーリス・フィノシャーロ「科学における批判、推論、判断」(ホームページの業績、翻訳4、日本ポパー哲学研究会、『ポパーレター』、Vol. 13,No. 1、35-48ページ。)をご案内いただきました。とても興味深い論文です。ガリレオ関係に言及のある箇所を一部、以下のようにご案内しますが、一般に、日本語では天動説、地動説と言いますが、英語では、太陽中心説、地球中心説と言うようです。中心がないと落ち着かない西洋人的な思想、言葉ではないかと思いますね。日本人は、中心(核とか、絶対的な存在)を持たない国民で、日本語はそういう思想を表現している言語だと思っています。この辺は私のライフワーク的研究テーマになると思っております。

「批判的思考の本性、力と限界を正しく理解し、評価するには、おそらくコペルニクス革命が科学におけるもっとも重要な出来事であろう。「コペルニクス革命」という名称は、結果として、地球静止的・地球中心的宇宙論を地球運動的・太陽中心的宇宙論に取り替えた一連の歴史的展開につけられている。古代の見解では、地球は宇宙の中心に静止しているが、他方、近代の見解によれば、地球は地軸を軸にして一日一度回転し、かつ一年に一度太陽の周りを、楕円を描いて回っているという。この革命の過程は、ニコラウス・コペルニクスの有名な著書『天球の回転について』が出版された年の1543年から、アイザック・ニュートンの『自然哲学の数学的原理』の初版が出版された1687年まで、約150年間続いた。
 この出来事は文字通りにもまた比喩的にも、驚天動地のものであったといってよいであろう。というのも、カギとなる展開は、地球が物理的な運動をしており、また宇宙の中心にはないという発見にあったが、この発見は、人間の文化、生活上のあらゆる面においてひじょうに豊かな帰結をもっていたので、文化的、心理的、社会的変動をもたらしたからである。
 コペルニクス革命を批判的思考に密接に関連させる事柄の一つは、次の事実から生じる。すなわち、この革命が、今日では偽であり、間違っているということが確実に知られている信念と、他方、今日では絶対に真であり、正しいということが同様に決定的な仕方で確立している信念の両方に関わっているという事実である。つまり、今日、正気のひとなら誰も、地球が動いているという事実を疑うことはできないし、かりにも人類が何かを知っており、また人間の知識が何らかの情報を包摂しているとするならば、地球の運動は確実にそのような事例の一つである。反対に、もしわれわれが偽なるものを知っているとすれば、地球が宇宙の中心に静止しているという見解がまさにそれである。
 このような認識論上の事実は二つの重要なことを含意している。一方では、知識は可能であるという教訓がある。知識は現実のものなのだからそれは可能であり、また知識が現実のものであるのは、われわれが少なくとも一つのこと、すなわち、地球は動いており、宇宙の中心に静止しているのではないことを知っているからである。もう一つの教訓は、進歩は可能であるというものである。それはコペルニクス革命が進歩の事例だからであり、その革命が進歩の事例であるのは、革命の結果、地球の位置や振る舞いに関する問題について、無知を知識によって取り替えることになったからである。」

(了)

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