モンターニュの折々の言葉 412「私がこの人は善い人だと思う人は、個性が共鳴する人」 [令和5年6月2日]

 昨日は、小学5年生に算数を教えていたのですが、引き算ができない生徒さんがいて引き算の仕方を教えるのに苦労しました。そういえば、フランス人は引き算が苦手だったことを思い出しました。彼らは基本的に引き算をしません。青空市場で野菜や果物を買うとき、お札を渡すと、売値に何円足せばお札の額面になるかを段階的に計算して、その額を買い手に渡すのです。こうした計算の発想の違いが、もしかしたら日本人(引き算が得意)とフランス人(足し算が得意)の人生観の違いにも表れているのかなとしばし考えていました。

 さて、今日から6月ということで、心機一転という感じもありますが、基本的には何も変わりません。変わるのは、アルバイトが増えて自由時間がどんどん減っていくということです。ですから、時折お休みを取ろうかと思っていましたが、海外の同期から、いわゆる違和感のあるメールが来ました。この違和感という単語、私はなるべく使わないようにしているのですが、辞書で確認していませんが、違和感というのは、かなり強い拒否反応、否認の反応だと思います。それを違和感という言葉でうまく包み込んで表現するのが都会的だと思いますが、秋田の熊が違和感を感じるのは、おそらく見知らぬ存在がテリトリーに侵入したときでしょう。

 で、秋田の熊が何に違和感を抱いたかというと、違和感というのは、わずかな異臭を感じたと理解してください。そして、特に尊称を使っている友人でもある同期を非難するつもりもありません。そう、いわゆる老婆心から以下を記述する訳でして、前もって釈明しておきます。

 「遺す言葉 外務省の「マレビト」の講話」にも書きましたが、私の異国を観る視点は、どちらかと言えば、文化人類学的な見方です。フランス、コンゴ民(旧ザイール)、セネガル、カナダ、アルジェリアといった国々を、そこに住む人々や社会の個性がどのようなものであるかを軸に観察してきました。養老孟司さんが言うように、個性というのは形になって表れます。それは身体であり、人為的な建造物になります。

 で、その個性がどのようにして形成されていくかというと、遺伝子的な要素を除けば、自然環境が大きい影響を与えます。自然環境と並んで人為的環境も大きな影響を持ちます。人為的環境とは、両親、家族、さらには一族郎党を含むもので、その人為的環境に加えて、社会的環境があります。社会的環境とは、経済的環境も含めた、ある人が生きるための柵であり、受け入れなければ生きていくことができない環境です。仕事、働くことも当然に含まれます。

 そうした与えられた、自らが求めたものではない自然環境、地縁環境、社会環境、経済環境、あるいは政治環境を乗り越えることで、人は進歩します。人が変わるのは、出会いや経験です。啓示を受けたかどうかの経験とも言えます。しかし、どのような人に、どのような書物に出会い、そしてどんな経験をするかは、あらかじめ書かれていないのが人生です。人生とは、自分自身で一筆書きで描くか、あるいは、何度も何度も塗りつぶして描くかの違いはあるかもしれませんが、最終的には自らの手で描くしかありません。環境の良し悪しを決めるのも本人だけです。

 同期の友人は、いわゆる成功者です。彼は自分が偉人・賢人であることを出身地や出生といった視点で考えたこともないし、全ての日本人は同じ日本人でしかないと思っていて、そこには何の差異もないと言っています。しかし、私はこういう、均質的、あるいは同質的視点こそが、「優秀な公務員」の証であると思います。外交官はスピーチをする機会が多いですが、国を代表している外交官は、なんの躊躇もなく、「日本人は…」と語ります。そうした言い方をしても何の違和感もなく話せるのが優秀な外交官なのでしょう。

 が、しかし、私はそうではありませんでした。私の挨拶は極めて属人的なもので、ある特定の、個性ある日本人を通してのスピーチでした。一般化できることはそうそうありません。しかし、外交官はそうせざるを得ないのです。出来る限り良い部分を強調して、日本(人)を売るのです。これはこれで仕方がないでしょう。優秀な外交官の挨拶文は教科書的な挨拶であるから良いのであって、個性的な挨拶は望ましくないのです。

 話を私があえて、偉人・賢人の出生的なこと、つまり環境的因子に拘る理由に戻りますが、人が環境の産物であることを否定できる人はいないと思います。重要なのはその環境的因子をどのように論理的に説得力ある形で表現するかです。それが出来ていない文章は、残念ながら、失敗作になります。ですから、同期が違和感を覚えた原因がその表現力にあったことはあり得ます。あり得ますが、多分、優秀な公務員は本質論には立ち入らないように訓練されているのかもしれませんね。

 本質論というのは、人や社会の本能、あるいは本性がどのようなものであるかという点と、そうした本能や本性が比較優位的に他よりも優れている場合、それは何に起因するかという分析です。私はこういう議論や分析が大好きです。なぜフランスが文化的に超大国でいられるのか、なぜアフリカはいつまで経っても発展途上で変わらないのか、なぜカナダは移民政策や言語政策を上手くできているのか、という問題を考えるときに、国民性としての本性や本能を抜きにして分析は出来ないでしょう。偉人、賢人の謎を解く鍵は、上述した様々な環境因子の賜物でもあって、そこには、当然ですが、人に備わっている五感的な感性の存在もあるでしょうし、あるいは、宗教的な、倫理的な、心の要因もあるでしょう。様々な要因・因子からなる人を、よりよく知るには、何が一番大事かというのは、その人のオリジンに触れるしかないと思います。

 しかし、外交官はオリジンには触れませんよね。恥部的で、タブー的なデリケートな場所の問題ですから。しかし、外交官は、国家と国家のお付き合いのプロであると同時に、人とのお付き合いのプロでなければいけない。困ったときの友こそ、真の友といいますが、日本(人)が困っているときに、いざというときに身を挺して助けてくれる国(人)を確保しておくのが外交官の最重要課題でしょう。うわべだけのお付き合いでは、そうした真の友は得られません。お互いのオリジンを知り、尊重できる関係があって、初めて、真の助け合い精神は生まれるのではないでしょうか。

 今日のまとめの言葉を述べます。個性というのは、その人が持つ磁力、あるいは地場の力のようなもので、ある特定の土地の出身者や、ある特定の学校を出た人に優れた人が多いというのは、そうした場の磁力も影響しているでしょう。初めて出逢う人を皆さんは、どのような視点で捉えますか?捉えるというか、眺めるというか。私がこれまでの人生で出逢った人では、優れた人というのは、どちらかと言えば、風貌は異型の人が多いです。平凡な人は、私のように差し障りのないように平凡です。それはそれで良いのですが、この人と付き合うのは難しいなあと思う人というのは、科学的ではない人です。科学的でないというのは、統計(学)を全く信じない人ということです。

 日本人の特性として挙げられる幾つかのポイントもそうですが、それらは全ての国民に該当しない訳ですが、しかしながら、論理的、科学的な思考のための前提条件としては使えるということで、統計的な、確率論的な分析予想をまったく無視した考えをしている人とは、私は話が合わないだろうと思うのです。一言で言えば、計算が出来ない人がです。

 ゴルフもしかりで、ゴルフは科学的であります。統計や確率に基づいて、クラブの選択をして、最善のスコアを獲得するゲーム。最大で200まで足し算が出来る人なら誰でも遊べるゲーム。ただ、ゴルフは科学が全てではなくて、個性という非科学的なものがあってこそゴルフで、ゴルファーがゴルファーである所以は、その個性を生み出している原点(オリジン)を持っているからでしょう。それを無視というか、まったく考慮しないゴルファーには、違和感を覚える訳です。

 人生の途次で出逢う人を観る私の視点は、この人はどんな個性を持ったゴルファーなんだろうと観てしまうことであります。そして、その個性が私の個性に呼応する、共鳴するときに、この人は善い人なんだろうなと思うようであります、それが善いか悪いかはわかりませんが。どうも、失礼しました。

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