モンターニュの折々の言葉 375「戦勝国の戦史はあてにならない。戦敗国の戦史こそより多く戦争の真相を教える」 [令和5年4月23日]

「私における小説の概念は単純で、人間と人生における私なりに感じた課題を書くだけのことだが、この小説では人間と人間の一表現として戦争が出てくる。その戦争も、この小説の主題上、戦術的規模よりも戦略的規模の場で見てゆくようにしたのだが、その作業では陸軍の方がやさしかった。陸軍は私自身がその世界にわずかながら居たことがあり、ごく初等の戦術も戦略用語も知っていたから、戦争の推移を地図で追いかさねてゆくだけで、総司令部レベルや軍司令部レベルでの成功や失敗の価値判断ができるような気がした。(中略)小説以外の奇妙な責任感のようなものがこの作品における書き手の中にあって、彼我の戦略や戦術の価値論でもし間違うようなことがあっては、この戦争がすでに日本とロシアの共有の歴史になっているだけに、書き手だけの自儘(じまま)がゆるされない感じがしたのである。」

「日本は維新後、西洋が四百年かかった経験をわずか半世紀で濃縮してやってしまった。日露戦争の勝利は、日本をして遅まきの帝国主義という重病患者にさせた。泥くさい軍国主義も体験した。それらの体験と失敗のあげくに太平洋戦争という、巨視的にいえば日露戦争の勝利の勘定書というべきものがやってきた。(中略)帝政ロシアの極東侵略に対し日本がそれを戦争のかたちではねかえすことができた最大の理由をあげよというならば、日本政府も国民も、幕末以来つづいてきた日本の脾弱感をもっていたがためであり、このため弱者の外交という、外交としてはもっとも知恵ぶかいものをやり、他の列強の同情を得べく奔走し、同情と援助を得ることに成功した。要するに脾弱感が勝利の最大の原因であった。」

「ただし、勝ったあと日本がいかにばかばかしい自国観をもつようになったかは、すでに知られているところである。脾弱感の裏返しは、現実的事実認識をともなわない強国意識であった。やはり国家的な病気がつづいていた。(中略)政治家も高級軍人もマスコミも国民も、神話化された日露戦争の神話性を信じきっていたし、自国や国際環境についての現実認識をうしなっていた。日露戦争の勝利はある意味では日本人を子供にもどした。その勝利の勘定書が太平洋戦争の大敗北としてまわってきたのは、歴史のもつきわめて単純な意味での因果律といっていい。」

「日本人は、事実を事実として残すという冷厳な感覚に欠けているのだろうか。時世時節(ときよじせつ)の価値観が事実に対する万能の判定者となり、都合のわるい事実を消す。日露戦争後の陸軍戦史もそうであった。太平洋戦争後も逆ながらおなじことがおこなわれ、いまもおこなわれている。事実は、文献の面でも、物の面でも、すべて存在したというものは残すべきである。いやな事実もそれが事実であるがために残しておくというヨーロッパの国々にみられる習慣に対してわれわれは多少の敬意をはらってもよさそうに思える。」

司馬遼太郎「『坂の上の雲』を書き終えて」

 司馬遼太郎は、「坂の上の雲」を書くにあたって、海軍の方は自信がなく、海軍となのつく書物や伝記物は全て読んだようですが、元海軍大佐の正木生虎という父親が海軍中将でもあった人から膨大な量になる手紙(むしろ資料)をもらったり、あるいは、世界中くまなく探してもこの人ほどの権威者はいないであろうと思われる程の海軍史家の福井静夫という技術少佐から軍艦について、色々と教えてもらったようです。それ以外にも、多くの数え切れない程の人から手紙や、または電話で海軍についての教示を得られたこともあって、出来上った作品のようであります。

 書き始めるまでの、作品を構想する時間もそれなりにあるでしょうが、完成まで4年を要した「坂の上の雲」、小説という位置づけにはなるのでしょうが、所謂小説とは違う。小説は、作者があるモデルを創造するところに真骨頂がありますが、この作品は、どちらか言えば、司馬自身が日露戦争を主役としてやっている、そんな感じが。昭和に生きていた司馬遼太郎さんが、明治時代に登場する、希な、変わった作品でしょう。私は、一度は読みましたが、2度読めるかというと、その辺はなんとも。トルストイの「戦争と平和」は時代は違いますが、執筆の期間は1865-1869とやはり4年かかって完成しています。「戦争と平和」は、学生時代に一度、そして、役所時代に一度読んでいますが、3度目を読むかというと、これもなかなか難しいかなと。

 役所を退職してから、読書三昧とは参りませんが、それなりに本を読んでおりますが、昔読んだ本を読むのと、新しい本を読むのとでは、どちらの方が多いかと申しますと、圧倒的にそれまでに読んでいない本の方が多いのですが、読書ではない本として、英語の参考書やフランス語のそれもあって、娯楽のため、気晴らしのための読書というのは、それほど多くはないのです。
前にも一度ご案内した英語の参考書では、関正生さんの「真・英文法大全」は900ページもありました(この本は一応読みました。期待した程ではなかったけれども)し、未だに読みかけの名著と言われる杉山忠一さんの「英文法詳解 新装復刻版」は650ページほどありますし、英語の達人とも言える行方昭夫さんの本(「読解力をきたえる英語名文 30」)で紹介されていた、江川泰三郎さんの「英文法解説」も先日つい買ってしまい(これは300ページほどですが)、どうも、退職してから予想していた読書とは質的にも、量的にも違う塩梅になってはおります。

 それにしても、この行方昭夫という方、おばけのような方ですね。おばけというと失礼でしょうが、1931年生まれで、昨年11月にこの「読解力をきたえる英語名文 30」を出版されていて、90歳でもこんな素敵な本を出せるというのは、まあ、たまげたものです。たまげたからおばけと申したのですが、いやあ、本当に凄いです。こういうお爺さんになりたいものですし、こういう作品を遺作として遺すのもありかなあと。

 なんで、そんなに英語の本を買って読んでいるのですかという、疑問はあるかもしれませんが、勿論、バイトで中学生に英語を教えるために必要な知識として覚えるためではありますが、ご案内のように、中学生の英語で必要な知識を教えるためには、その上の知識をもっていないと出来ません。相手の知識と同等ではなくて、それを遥かに越えた知識がないと教えられない訳です。そういうこともあってのことですが、これは相手との関係で必要であるということですが、個人的には、英語の文法そのものの知識を得るというよりも、受動的な知識の習得よりも、英語と日本語の違いを知って、より日本語が上手になりたいということがあります。換言すれば、それぞれの言語表現の違いを知って、私の日本語にはなかった、論理的な言葉使いを習得して、より積極的に、能動的に日本語で表現したいからであります。

 日本人はよく言われるように、情報収集能力は高い、つまり、読解力はある。しかし、反対に、情報提供能力は高くもなく、発信力がない。私も同様。私は、学習に関しては、保守的というか伝統的な考えを持っていて、基本は真似る技術を最大限に活用して、模倣度を高めることで、効果を得ることができると考えております。ですから、ゴルフもそうですが、模倣のための技術の向上が上達への道でもあると思っております。

 文法がどうだとか、語彙がどうだとかいうことよりも、先ず、模範的な文を真似ることに徹します。英語も、フランス語もお手本的な例文を沢山覚えます。用例を増やすことで、数撃ちゃ当たるではありませんが、追々、文法にしても、語彙にしても、次第次第に分かるようになるし、どんな品詞を使うかも分かってきます。

 ですから、多分、あまり他の人がやらないだろうと思うのですが、冒頭に司馬遼太郎の文章を長々と引用していますが、これは、私の日本語の修練の一つでもあるのです。ゴルフのスイングというのは、ゴルファーの身体能力の表現ですが、より正確には、ゴルファーの呼吸の仕方で個性が出ます。身体のリズムですね、要するに。文もしかりで、句読点の付け方や、体言止めの使用などもそうで、単語の選び方もそうかもしれませんが、すべて、筆者がどのような息遣いをして書いているかが文には表れる訳でしょう。かつて日本で本が貴重で、自由にならない時代に、筆で書いて文章を複写したようにして、文章を引用しているのは、筆者のリズムを体得するためであります。ちなみに、本を読む時の呼吸に一番合うと思う文章は、フランス語や英語などの外国語に優れている人の手になる文章ですが、他方、書く時の文章の呼吸に参考になる文章となると、日本語に優れている人の文章のようで、この辺がなんとも不思議ではありますが。

 さて、司馬遼太郎の歴史観とも言える、冒頭の文章ですが、確かに、日本人は、具合の悪いことが書かれている文書は皆焼却することを習いのようにしていて、歴史書といっても、どこまで本当のことなのかわからない。日本で国史が編纂されだしたのが、8世紀初頭で、712年「古事記」、720年「日本書紀」が完成していますが、この国史的な文書の信憑性が今ひとつ。

 漢字が日本で使われ出したのが4世紀から5世紀と言われていますが、推古天皇が603年冠位12階を制定、604年厩戸王(聖徳太子)が憲法17条を制定していて、飛鳥時代には書かれた書物としては、「天皇記」「国記」、「三経義疏」があります。憲法17条が制定されて、国史が出るまでに、100年が経過していますが、この100年の間に、日本語の言語としての発展もあったのでしょうね。

 しかし、日本が世界史に名を表すのは、中国の前漢の時代の「漢書」地理志で、卑弥呼が登場するのは、2世紀後半の「魏志」倭人伝。国そのものの成り立ちもよくわからないのが日本ですから、国史となると、なんとも。なお、漢詩の文集としては、751年「懐風藻」が、同じ頃に和歌集の「万葉集」が完成しています。

 日本人が記録というか、過去にこだわらない理由が必ずあると思うのですが、明確な答えは残念ながら出てきません。勿論というか、私の過去で記録に残さない、折々では書かない事実が沢山あることから類推するに、私がそういう事実を書かないで、脚色しているとすれば、それはやはり「恥ずかしい」という気持ちが強いからかなと。恥ずかしいという気持ちを持てるのは、動物では人間だけです。どういう時に恥ずかしく感じるかについての、世界共通のものはないようですが、単に倫理的とか、道徳的なことだけではなさそう。この辺は、文化人類学の分野になるのかわかりませんが、外国語の学習というものは、こうした恥の文化を学ぶ上でも役立ちます。

 今日のまとめです。簡単に。地方選挙が終わり、当選した人は歓喜の涙が。落選した人は悲嘆の涙が。同じ涙でも意味が違う。当選した人は、戦いで勝利した成功者で、落選した人は戦いに敗れた失敗者。今日の折々の題名ではありませんが、真実は敗者が知っているのでしょうね。どんな戦いでも、戦いには負けたけれども、勝負には勝った、だから、恥ずかしくないと、胸を張って、また明日から元気にやれる人は幸いなるかな、です。どうも失礼しました。

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