モンターニュの折々の言葉 364「貴方の時間は何のための時間?」 [令和5年4月11日]

  忙しいと言えば、忙しい、暇と言えば暇なのが、私の日々でございます。一週間の予定は前々からほぼ決まっていて、外での予定が多い週は忙しい、予定がない週は暇という感じが極々一般的な認識なのではないでしょうか。

 ただ、私モンターニュは、基本、熊ですから、群れて遊ぶのは得意じゃない。得意じゃないということは好きじゃないということなんでしょう。昔の仲間、同級生とか同窓生、あるいは、学生時代のクラブ仲間や仕事での同期生や同僚と、気軽に、暇だから今度遊ぼうよ、というような感じでは遊べない熊。今日は、外務省時代の同期の集まりを自ら企画し、店の確保、出席者の確認等など、所謂幹事として取り仕切っているのですが、群れることが好きで、得意だからやっている訳でもなさそう。仕切るのは、しかし...

 群れない熊は、今日も午前中はゴルフの練習に。良いですねえ、こうした時間は。完全な無の時間ではありませんが、なにかに打ち込むという時間は、惑溺する時間というのは、かけがえのない時間。これがあるからやめられない、そんな気がしております。お陰で、今日のショットは稀に見るショットばかりで、そろそろ、自らのスイングが確立しそうな、そんな期待感がふつふつと湧いてきております。

 それはさておき、実は、私が一番幸せに感じる瞬間というのは、ああ、今週は何も予定がないなあと思う時。臍曲りの天邪鬼の杢兵衛ならぬモンターニュだからそう思うのかわかりませんが、何故か嬉しい気分になるのです。その一つは、多分ですが、自由に考える時間が沢山あるからなのかなと。考える時間というのは、ある行動と別の行動の間の時間にする脳の時間ですが、考えるというよりも、私の場合は思い出す時間。

 昨日は、小さい頃から、私は何を考えて生きてきたのかな、と日々の日課でもあるランニングの後、机に向かって考えおりました。幼稚園までの記憶は殆どありませんので、その頃の思考はゼロとも言えるのですが、記憶に残っているのは、同級生の女の子が病気で亡くなったこと。小学校時代の記憶はそこそこありますが、私の曾祖母(私の母のお婆さん)が亡くなったこと。中学校時代は父親が亡くなったこと。高校時代は、母が目の病気で手術し入院し、私もラグビーの怪我で手術・入院したこと。中学生時代の出来事に加えるなら、高校の入学試験に落ちて、予備校に入学したこと。高校時代の出来事に加えるなら、大学入試に落ちて、上京し、新聞配達をしながら予備校に通ったこと。大学時代は、バイト中心のような生活をしながらも、大学2年生の時に、初めて外国を訪れたこと。大学卒業時には就職できずに、1年間の浪人生活を送ったこと。こうした出来事に際して、思ったこと、考えたことは沢山あった筈ですが、記録も、記憶も定かではありません。唯一今残っているのは、拙書「マルクは絵を描く」の「杢兵衛の夢物語」にある記述だけ。

 外務省時代に何を考えていたかの記憶を辿れるのは、「マルクは絵を描く」にある文章であり、「思考の日々」、「杢兵衛のゴルフの指南書」、「カミュを追って」、そして「遺す言葉」にあるものだけです。もっともこれは書き言葉ですが、私の思ったことや、考えたことは高校生講座や外交講座などで、私が語った、文字としては残ってはいない言葉にあった訳です。書いた言葉よりも話し言葉の中に、もしかしたら、私のこれまでの人生で考えたことが語られていたかもしれません。そうした講演での話を思い出しながら、結局のところ、私が考え続けてきたテーマというものが仮にあるとすれば、それは「人の幸せとは何か」であったように思えます。

 地中海沿岸の南仏での語学研修時代、外交官としての最初の勤務地であるキンシャサ(ザイールの首都、後のコンゴ民主共和国)、その後のパリ(フランス)、ダカール(セネガル)、パリ(フランス)、モントリオール(カナダ)、アルジェ(アルジェリア)、キンシャサ(コンゴ民主共和国)、オタワ(カナダ)という、海外勤務の時間は、そうした幸せ探しの時間であった気がします。勿論、メーテルリンクの「青い鳥」ではありませんが、幸せは外にあるものではなく、内にあるもので、そういう事を気づかせるための時間でもあったと言えます。仕事は私に、職業上の得難い経験と知識と技能を、そして人との出会いを叶えてくれましたが、そうした仕事を介して得られた、どちらかと言えば有形の財産とは別に、私という人間がどういう存在であるかを知る上でのかけがえのない、無形の出会いを得るための考える時間を与えてくれました。

 アフリカでは、発展とか、開発とか、あるいは進歩とは何かを。カナダでは、アイデンティティーとは何かを考えさせられ、フランスやアルジェリアでは、生きる喜びためのアーツとは何かを。幸せ探しの時間でもある私のこれまでの人生は、換言すれば、そのための学びの時間であったのかと。ゴルフもしかり、フランス語もしかり。幸せを感じるためには、身体的な健康は勿論ですが、人間の根源的存在として、言葉によって生きるしかない生き物という宿命があって、そのための思考であり、学びになるのでしょう。

 今日のまとめです。伊藤肇が「人間的魅力の研究」で述べていますが、宗教がどのような時に隆盛を極めるか、人気を博するかというと、優れた人、指導者が出たときであると。何を説いたかという、教義的なこともさることながら、その人の人間的な魅力が大きいということです。日本で一番多い宗派かどうかはわかりませんが、浄土真宗の創設者的存在の親鸞はそういう人ではなかったかと。イエス・キリストやパウロはそうではなかったのかと。

 スポーツの世界を見れば、まさしくその通り。WBCで大活躍した大谷選手やダルビッシュ選手の人間性にうたれた人は多いでしょう。スポーツに限らず、学問であれ、政治であれ、そして、仕事でもそうですが、人間的魅力のある人に人は惹かれる訳です。政治家で言えば、フランスのナポレオンも、そしてシャルル・ド・ゴールもそうでしょう。

 ちなみに、穿った見方かもしれませんが、宗教と民主主義は双子の兄弟ではないかと思う程に似ている。本来平等ではない人間を平等に扱うから。民主主義の平等性は、選挙の際の一票の投票権で担保されている。宗教の平等は神によって担保されている。人為的な平等が民主主義で、神的な平等が宗教。そうした人を司る宗教も、政治を運営する民主主義も、偉大な人間、あるいは、偉大なる存在なくしては成り立たない訳ですから。神の偉大さを否定したことから、民主主義が出発しているとも言えなくもない。

 人が学ぶ対象は様々でしょう。しかし、学ぶなら、優れたもの、偉大なるものを、思想も含めて学ぶ方が良いとは思います。優れたものには優れた思想なり、技術がありますから、学ぶことで得られるものは確かに多い。それでもですね、学ぶという意味を、あるいはその時間をより長いものとして、あるいは密度の高いものとして捉えるならば、学ぶべきことは、人間についての、人間の魅力についてではないでしょうか。

 外交官として優れた功績を残した人は、概ね、優れた業績の著書を残します。そうした功績的著を読んで、外交なり、国際関係を学ぶも良しです。しかし、成果物としての仕事の功績の著書からは、その外交官の優れたもの、人間性は見えてきませんよね。ですから、外交官本人が書いたものを読んだだけでは、十分な人間理解には至らない。そうは思いながらも、私が求めているもの、学ぼうとしているもののテーマには、この人の魅力があって、そうしたものに直に触れてみたい、薫陶を得てみたいと思って、今日もああでもないこうでもない、と語っている次第であります。

どうも、失礼しました。

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