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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業

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●中勘助先生の評伝に寄せる 『銀の匙』で知られる中勘助先生の人生と文学は数学における岡潔先生の姿ととてもよく似ています。評伝の執筆が望まれますが、そのためには人生行路の細部の諸事…
中勘助先生は『銀の匙』の作者として知られる詩人です。「銀の匙」に描かれた幼少時から昭和17年にいた…
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2021年7月の記事一覧

『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (111) 詩の世界を紡ぐ

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高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (112)不条理と憤懣

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高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (113) 信濃追分から叡山…

 中先生は青山の姉のところで療養を続け、ようやく近所の床屋に行ける程度になり、真如院にも…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (114)「つむじまがり」…

 中先生が比叡山に向うことになった経緯は不明ですが、真如院で暮しているうちに寛永寺のお坊…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (115)『山田又吉遺稿』

 大正3年の秋10月に東京にもどった中先生は再び真如院に滞在しました。「孟宗の蔭」を読み進…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (116)鵠沼への誘いを受…

 大正5年の年が明けて1月から2月にかけての時期は山田さんの遺稿集の刊行の準備もほぼ完了し…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (117)徳満寺へ

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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (118)古寺巡礼

 中先生の作品『郊外 その二』には大正5年12月26日から翌大正6年11月16日までの記録が途切れ…

高瀬正仁
3年前
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高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (119) 東大寺南大門の別…

 和辻さんの『古寺巡礼』の引用を続けます。次に引くのは東大寺を訪ねたときの描写です。 《…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (120) 不思議な東北旅行

 奈良滞在を切り上げたのはいつころなのか、正確な日にちは不明ですが、5月末日か、あるいは6…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (121)沼のほとりに向う

 中先生が手賀沼のほとりで暮らすようになったのはいつからなのか、正確な日にちは不明ですが…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (122) 我孫子訪問記(そ…

 昭和47年5月の末のある日、我孫子の手賀沼のほとりに出かけたことがあります。すでに半世紀…

高瀬正仁
3年前
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『銀の匙』の泉を求めて -中勘助先生の評伝のための基礎作業 (123) 我孫子訪問記(その2)

 高嶌家のお嫁さんにいろいろたずねたり、お話をうかがったりした覚えがありますが、詳しいことはみな忘れてしまいました。「沼のほとり」のお嫁さんに会えるとは思ってもいないことでしたので気持ちが動顛していたのでした。中さんの手紙もたくさんあったけれどもみんななくなってしまい、今では一通だけ残っているとのことで見せていただきましたが、妙な崩し字で一字も読めませんでした。署名入りの『沼のほとり』などもあったが、我孫子市の教育委員長のだれとかがちょっと借りていったきりいっこうに返してくれ