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私たちは想像以上に「生い立ち」に囚われている(前編)

お盆ということで、久しぶりに妻と二人で実家に行った。
何気なくダイニングテーブルのいつもの席に座り、向かいに座る母と対面した。
「いつもの」と言っても実家にいたのは高校卒業までだから、35年前までの「いつもの」席であった。私はよくこの席で、母と向かい合って座った。食事をしたり、その日にあったことを話したり、進路のことを相談したり、母から家業のことを聞いたり、父の愚痴を聞いたり。その席から見える台所の様子など、基本的に今でもあまり変わりはないのだが、目の前の母の様子は間違いなく35年経っていた。

不思議な気がした。
この「いつもの」席で、その頃の私のほぼ全てのことを母と共有していた。今でもこのことは、自分の子どもと話すときに思い出し、そのときの情景は脳裏に鮮明に蘇る。しかし、母の顔の皺を見て、あの記憶から35年が経ったんだ、と実感し、その対話の日々もたったの十数年だったんだ、と思い知らされた。私の隣に座る妻との時間の半分でしかない。
それなのに、どうしてこの「いつもの」席の記憶は、時間的にも内容的にも、圧倒的な存在感で、私の頭の中に居座っているのか。やはり、「生い立ち」が私たちに与える影響は、意識しようが意識しまいが決定的に大きい、と再認識した。

この「生い立ち」の重要性は、6年前にstudio pelletを始めて、地域のさまざま分野の人々との関わりが広がり深まって、その一人一人を理解しようとするときに、気づいたことだった。
studio pelletは基本的には私たち夫婦が運営主体で、ほぼ毎日、どちらかが店先に立っている。二人とも50歳を過ぎてちょうど年頃なのだろうか、若い世代の経営者や同世代の友人たち、進路を考える学生など、いろんな境遇の人々から相談を受けるようになった。また、当社で働く社員やアルバイトの採用に際しても、その人のことを真剣に考える。そしてやっぱり、その人だけを観察していてはダメで、その人の両親の職業、生まれた地域、通った学校の環境を知らないと、その人の本質に迫れない、という確信が生まれた。例えば、公務員を親にもつ若手経営者、母子家庭で育った個人事業主、都会育ちの山梨の主婦、中学校でいじめにあっていたサラリーマン。こういう背景の理解なしに語っていても、その人の本音は聞き出せないし、正体は掴めない。つまり、20歳代までに得た生い立ちからの経験は、何歳になろうとも、その人の性質や価値観を大きく左右している。

かく言う私もその一人。
中卒の父は集団就職の後に、19歳で甲府市に自動車鈑金塗装工場を始めた。その数年後に高卒の母と結婚し、夫婦で経営しながら生まれた私を育てた。時代は高度経済成長、その後のバブル経済と続き、貧しかった家庭も会社も急に豊かになり、自宅も工場も大きくなった。そんな両親の希望は、子どもたちが良い大学に行って、山梨を出て大都会で活躍すること。地元では最も大きい鈑金塗装工場として知られたが、父の口癖は「ここは吹き溜まり」であり、私たち兄弟に継がせることは考えていなかった。そこには父の絶望があったのだろう。自分には読み書きが十分にできないという不甲斐なさと、優秀な人材が定着しないもどかしさ。それでも大手メーカーに自社の技術力が認められ、メーカー指定修理工場という名の下請け工場として発展した。つまり、会社が大切にしているのは地域のお客様ではなく、大手メーカーとの信頼関係であった。なぜなら、大手こそが自社の価値を正当に評価してくれたから。「田舎者にはおれのことは分からん」。この悔しさを、息子によって一発大逆転することが両親の期待だったし、それが私の生い立ちであり、私が無意識にも囚われていた価値観だった。

例え親と過ごした時間が十数年だったとしても、子どもに対するその影響力は想像以上に大きい。親はその価値観を何十年もかけて身につけてきたのだ。
ただ、私はとっくにこの両親の価値観、つまり生い立ちの呪縛からは解かれていると思っていた。そもそも私は東京で生活しながら、そこに「地域」がないことに不足感を抱いて山梨に戻ったし、地域住民が自らの地域に誇りを持つことが大切だと「ワインツーリズム運動」を始めて、その価値観をもっと広めるために選挙にも出た。誰よりも地域のことを自分のこととして考えているという自負を持っていた。自分の生い立ちは乗り越えているはずだった。しかし、あることがきっかけで、そうではないと気がついた。
(つづく)


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