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自分の時間を生きる

大学入学と共に東京に移って間もない頃、東京という環境に適応する上で最も戸惑ったのが「時間の流れ方」の違いでした。僕が勝手に「時感差」と名付けている現象なのですが、「時感」とは主観的実感における時間の流れの速さのことを表しています。鳥取の時間と東京の時間、すなわち鳥取での時感と東京でのそれは、あまりにも違っていました。何だか知らない間に日が暮れていて、慌てて何か生産的なことをしようと足掻いてみるものの結局意味のない夜更かしに終わってしまい、翌朝目が覚めるとぐったりしている。なんてことがしょっちゅうありました。そんな日々の中で、僕は当時最も熱心に受講していた授業の教官に、その旨を打ち明けて相談することにしました。科学史・生命倫理学専攻の、小松美彦先生です。東京大学駒場キャンパス13号館1323教室での、金曜5限の科学史の授業の後、僕は屋外の階段下のベンチで煙草を吸っている小松先生のところまで相談しに行きました。相談に至った文脈や状況は自分なりに精一杯説明したつもりですが、相談内容の中心としては要するに以下のようなことです。

「東京の時間と鳥取の時間があまりにも違っていて戸惑っています。正直苦しいです。どうしたらいいでしょうか?」

改めてこうして書いてみると、実に突拍子もない、無茶苦茶な相談です。しかしこの小松先生という方は、僕にとってこういう相談を自然に持っていけるような数少ない(というか唯一の)教官でした。事実こんな田舎のイモ学生の言葉足らずの相談を、真剣に聴いてくださいました。先生は僕の話を聞き終わると、自分自身で確かめるように頷きながら、こう仰いました。

「…苦しめばいいんじゃないかな」

僕はすぐには答えを返せず、思わず「え?」と口にしながら先生の言葉を飲み込もうとしました。するとこんな風に補足して続けてくださいました。

「苦しむって言っても、君が今苦しいっていうのは、自分の外側を流れてる東京の時間に無理して合わせようとするからだろう?それは君の中に流れてる鳥取の時間とは異なるわけだから、苦しくなるのは当然だと思う。そうじゃなくて、君は君の内側に流れてる自分の時間を生きればいい。好きな時に好きな本を読み、好きな場所で好きな人と会う。但しそうすれば必ず外側を流れる時間とはズレていくから、その狭間で苦しむことになるけれど、そういう苦しみならむしろ徹底して苦しみ抜いた方がいいと思う。そういう意味で、苦しめばいいんじゃないかなって言ったんだ」

他にも、別の日に授業で鑑賞したテレビドラマのワンシーンを引き合いに出しながら「自分自身が時間そのものになる」ということも併せて話してくださいました。その後小松先生には8年越しでの大学卒業までずっとお世話になるのですが、「自分の速さで生きろ」ということを繰り返し伝えてくださいました。

僕は今年で36歳になり、あの日の相談から既に15年以上の月日が流れています。でも今思い出しても、僕の生き方においてひとつの確かな方向性を決定付けたのは間違いなくあの日の先生の言葉でした。すなわち自分の時間を生きるということ。自分の時間を生きた結果として外側を流れる時間との軋轢が生じても、自分の歩みは止めず、むしろとことん苦しみ抜いて、自分の時間を生きる人生を貫くということ。自分自身が時間そのものになるということです。

実際その通りに生きたら、入学当初は4年後だと思っていた大学卒業までに8年の月日が流れることとなり、卒業後の進路も高校時代に考えていたようないわゆる一般的な道(例えば公務員になるとか普通に就活して企業に就職するとか)ではなく、己の感覚や予感に従いながら自分で仕事を生み出していくような生き方になっていました。多くの人が必死になって働く時間に休み遊び、多くの人が休み遊んでいる間に真剣に何かに取り組んで身も魂も削るような生活をした時期もありました。そこには確かに先生が仰っていた「狭間の苦しみ」がありましたが、いただいた言葉が力になって苦しみと向き合う生き方ができました。それにお陰様で、年々苦しみよりも楽しみ、自由や気楽さが優るようになってきています。

あの日相談相手に小松先生を選んだこと、いただいた言葉、そしてあの日から今日に至るまでその言葉通りに生きることを選んだ自分の選択、これら全てが正解だったかと尋ねられたら、「分からない」としか答えようがありません。でも、間違いなくある種の必然ではあったと思っています。少なくとも僕は、15年以上の月日が流れた現在も変わらずあの時学んだ通りの感覚・姿勢で生きていますし、そのことに違和感は全くありません。違和感どころか幸せです。

自分の時間を生きる。
自分の時感で生きる。

これからも己の人生のテーマ・軸として、この生き方を自然に続けていける自分でありたいと思っています。


【追記(2023年5月1日)】
 本記事のテーマである「自分の時間を生きる」を軸とした自伝的エッセイ集『東大8年生 自分時間の歩き方』が全国発売中です。ご興味ある方は是非、ご一読いただければ幸いです。


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