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猫のにおい


朝、寝室のドアを開けると、我が家の猫の皆さんが続々と私の周りに集まってくる。

ドアの開く前にきちんと両手をそろえて待ち構えているのが、猫中の猫、猫の見本みたいなしっかり者の姐さんだ。

ドアが開くと同時にこちらにチャッチャとつめの音を響かせて登場するのが、ピカイチ猫イケメンだ。

後ろから伸びをしながら顔を出すのは、やられたことはやられる前に返しておくが基本の強気猫。

ホットカーペットの上で片目だけ開けてこちらを確認するのは、やけに丸くてどう見てもつちのこにしか見えないが顔だけはウルトラプリティ猫。

クソ寒い中階段の踊り場で遠くの空を見ているのは、娘の友達が泣きながら貰って下さいと訴えた結果うちに定住することになった控えめな猫。

階段を下りる足に飛びついてくるのは、遠慮をまだ微塵もしようとしないお調子者が過ぎる学び途中の若い猫。

リビングのケージの中には、病気がちで涙目が残ってしまった子猫がミニヒーターの中で丸まって…あ、目あけてこっち見た。

ケージの中の猫砂を・・・うーん、体が弱いからなのか、この猫はやけに産物がにおう。とはいえ、形状はいつも通りだ、今日もまあ健康だろう。
ケージの扉が開いたので、子猫が飛び出て頭を塗り塗りしてくる…ちょっと待て、お前はまず顔の美化が必要だ。
洗浄綿で潤む目と鼻のまわりを拭いてやり、美しくなったところで放流。

大人猫達に挨拶を…うーん、かじるのって挨拶なのかなあ、飛びつくのって挨拶なのかなあ。

大人猫達は怒りもせずに、私のご飯献上を待ち構えている。

ご飯を早急に差し出したいところだが、その前にトイレ掃除が必要だ。

うっかり掃除をせずにご飯を差し出すと、食べたらすぐさま出すが信条のイケメン猫と、猫トイレに入るのも必死にならねばならぬウルトラプリティ猫が未掃除のひどい状態の戦場に乗り込みかねない。

ざっ、ざっ、ざっ・・・。

今日もみんな良いもんだしてるな。

これはイケメンの、これは姐さんの、これは強気猫の、これはウルトラプリティの、これは控えめ猫の堂々たる産物だし、学び途中は砂ぐらい・・・かけろや!!

猫は互いのにおいをかぎ分けているとかいいますが。
私もばっちり、猫のにおいをかぎ分けていたりする。

基本産物のにおいで判別しているが、たぶん肛門のにおいをかいでも判る。

むしろ、ずいぶん前は肛門のにおいで判別していた時期もあったのだ。

あれはもうずいぶん前、私は買い物帰りに黒い猫を拾った。
ダンボールに入っていた、五つの小さな黒い物体。

ひときわ大きな声で叫んでいたのは、しっかりものの姐さんだった。

姐さんのドスの利いた声だったから、私は自転車をとめ、歩道橋の下の誰も立ち入らないような草むらに足を踏み入れたのだ。

ダンボールをあけたときの衝撃は、今でも忘れられない。

ネズミが実にどうしようもなく超絶話にならないくらい本気で冗談抜きに恐ろしいまでに苦手な私は思わず立ちすくんだ。

どう見てもネズミ、いやしかし、ネズミはちゅうと鳴くのではないか、こいつらはぎゃあぎゃあ言っている、ミュウミュウ言っている…猫か、これ!!!猫じゃん!これ!!!

へその緒の付いたままの猫を五匹も見つけてしまった私は、セール帰りの大荷物を抱え、自転車のサドルに段ボールを乗せ、歩いて30分かけて自宅に戻った。

近所の動物病院に行き、一通りレクチャーを受け、猫育てはスタートしたのだ。

赤ちゃん猫は二~四時間おきにミルクを与えなければならない。幸い自宅で仕事をしているので、飢えさせるようなことはない。仕事のきりの良いところで猫ケースに向かい、一通り世話をしたところで仕事に戻る、一連の流れができた。

ミルクを大量に作り、一匹づつ腹を膨らませ全員飲み終わったところでおしりタイムに突入する。ミルクでポンポンに膨れたおなかを確認しつつ、洗浄面でおしりを刺激し排泄を促すのである。
五匹もいると、完全に流れ作業になってしまうのだが、あんまり丁寧にやり過ぎてもおしりが赤くなってしまうので、いくぶん勢いよくリズミカルにぽんぽんやるのがコツだ。

黒猫ばかり五匹もいるので、なかなか見分けがつきにくく、不慣れな一日目は同じ猫にミルクを与えるとか同じ猫のおしりをポンポンするとか不手際があったのだが。

三日目で、猫のにおいが違う事に気が付いたのだ。
こんなにも同じ黒いネズミそっくりな猫なのに、一匹一匹おしりのにおいが違うのである。

一番小さくて80gちょっとしかない猫は少しすっぱいにおいがした。
一匹は正統派のにおいがした。
一匹は田舎っぽいにおいがした。
一匹は発酵したにおいがした。
一匹はやけに凝縮したにおいがした。

同じくさいにおいなのに、全部違うくさいが、猫の肛門に存在していたのだ。

三日目に、発酵臭のする猫がもらわれて行った。

おしりの世話をしなくて済むようになったころ、田舎っぽいにおいのする猫がもらわれて行った。

私の元に残ったのは、あの日一番でかい声で泣いていた、一番小さなおしりのすっぱいにおいの猫と、やけにイケメンでずいぶん優雅な、やけに落ち着き払ったおしりが普通にくさい猫と、かなりごつくて相当でかい体の、ビビり症のおしりのにおいが凝縮してかなりくさい猫、三匹。

全員真っ黒なので、夜中に布団に乗り込んでくると、誰が誰だかさっぱりわからないのだが、私はばっちり見分けができた。いや、見てはいない、嗅ぎ分けていたのだ。とりわけ、ビビりのおしりのくさい猫は、いつも隙があれば私の顔のすぐ横で高いびきをかくようになった。猫がいびきをかくなど、それまで知りもしなかった。

おしりのくさい猫は、時折、腕を伸ばして、人の鼻に自慢の肉球を押し付けてくるようになった。

おしりのずいぶんくさい猫ではあったが、その肉球のにおいは…ずいぶん、いいにおいをしていた。

肉球が、ポップコーンのにおいがするのである。

今にして思えば、おしりのくさい猫は、体臭が濃縮されている猫だったのだ。ほかの黒猫の肉球は、いずれもにおいなどしなかった。

近所の野良猫がうちの前に置いていった、のちに太り過ぎる、おしりのまろやかにくさい猫も。
街路樹の植木が並ぶ坂の部分を転がり落ちてきた、やけに気の強い、おしりのほんのりくさい猫も。
娘の友達が持ち込んだ、やけに体力温存型の動じない、おしりの臭さにほんのりお日様臭を持つ猫も。
息子の友達の家で生まれた、怖いもの知らずの尻尾が長すぎる、おしりの臭さよりもおならの多さが気になる猫も。
息子の友達が持ち込んだ、いつも涙目で目が潤んで最弱をアピールしている、相当破滅的におしりがクサすぎる猫も。

ポップコーン臭を持つ猫は、一匹しかいなかったのである。

食欲のない日は、猫のポップコーンを起爆剤にした。
元気のない日は、猫のポップコーンに力を借りた。
なんでもない日だって、猫のポップコーンを楽しんだ。

ポップコーンを見るたびに、心行くまでにおいをかいだ、おしりのくさい猫を思い出す。

おしりのくさい猫は、においだけでなく、いろんなものを凝縮する体質だったようだ。

腎臓を悪くして、7キロあった体重が3キロを切って。
ずいぶん、小さくなって、最後には、においもしなくなった。

あの、ポップコーンのにおいは、もう、この世界から、消えてしまったのだ。

…けれど。

映画館の、売店で。ショッピングモールの、ポップコーン売り場で。自宅キッチンで、ポップコーンを作る時。息子の友達が持ってきたおやつがポップコーンだった時。

ふと、おしりのくさかった猫の、飛び切りいいにおいをしていた肉球のにおいを、思い出すのだ。

いなくなってしまった猫の面影が、ポップコーンのにおいとともに、ふわりと、私の中に浮かぶ。

においは、記憶を、鮮明にするのだ。
私の中に、永遠に、猫の面影が、残っているのだ。

…おそらく。

私は、これからも、いろんなにおいをかいでは、いろんな猫を思い出してゆくのだろう。

ああ、このくささは、こいつのにおい、これほどくさいのはこいつしか匹敵できないだろう、このくささならあいつよりはましだからまあ大丈夫だろう。

…ちょっとまて。

私は、くさいもののにおいをかぎ続けることが前提になってはいないか。
私は、くさいもののにおいをかいで色々判断することが前提になってはいないか。

おかしいな、良い話のはずだったのに、マニアックな話になってきた。

そういえば、私はやけに猫の肉球のにおいを確認しがちだな。
そういえば、私はやけに猫の肛門をチェックしがちだな。

…。

うん、気のせいだな、猫を飼ってる人なら、みんなこういうこと、あるでしょう?

…あるよね?

…ありますよ、ねえええええ?!

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