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あなたが何かを恐れた時、相手もあなたを恐れている【映画「ヒックとドラゴン」】

「ヒックとドラゴン」という映画をご存じだろうか。

2010年アメリカで制作されたアニメーション映画で、「ヒックとドラゴン2」「ヒックとドラゴン 聖地への冒険」といった続編も公開されている。

わたしはこの「ヒックとドラゴン」がたまらなく好きで、何度も観返す作品のひとつ。

とあるバイキングの村。作物の育たない環境のため、家畜の羊を育てて生活している。
しかしそんな羊を狙う、ある害獣の存在が。

――ドラゴン。
勇敢なバイキングたちは、自分たちより圧倒的に大きく強いドラゴンたちに立ち向かい、命懸けの生活をおくっていた。

村の長を父に持つ少年「ヒック」の夢は、いつか立派なバイキングになってドラゴンを倒すこと! でも実際のヒックは、筋力も体力もなく、いつもへっぽこな失敗ばかり……。

頼りない「ヒック」の目線で語られるストーリー。
父やバイキングたちはとても格好よく見え、ヒックの焦る気持ちもよく分かる。「頑張れよ」と胸が熱くなる。

でもわたしはこれを、単に「そうだ、いけ、頑張れー!」と胸アツ作品として観ているわけではない。
観る度に、どうしようもなく苦しい気持ちになるのだ。

※以下、どうしようもなくネタバレするのでご了承ください。ネタバレ観てからも面白い作品だけど※

「敵」とは誰か。「正義」は誰か。

冒頭、人間の敵として描かれるドラゴン。その目は鋭く、火を吹き、家屋を容赦なく破壊する。
人間にとって、とても怖く、迷惑で、恨めしい存在。

――しかしそれは、ドラゴンにとっても同じで。

村を何度も襲撃するドラゴンたちは、その奪った羊や食料を自分たちで食べているわけではなかった。
ドラゴンたちよりももっともっと、遥かに大きいボスドラゴンがいたのだ。ドラゴンたちは、身を守るために、そのボスドラゴンに献上しなくてはならなかった。

主人公のヒックは、ひょんなことから「敵」が「敵」ではなかったことを知る。

「敵」を倒すためだけに生きる父やバイキング。
別の強大な「敵」に怯えて民家を襲うドラゴン。
ふたつの争いを目の前にして、どうにか理解し合えないかと悩むヒック。

どちらの気持ちも、よく分かる。
自分だけの視点に囚われ、何かを断罪したり、何かを恐れたりすることが、わたしにもある。きっとあなたにも。

分からないものは怖い。怖いものは拒絶する。拒絶するものは分からない。

バイキングたちだって、ドラゴンたちだって、悪くはないのだと思う。生きていくために、仕方のないこと。
何かと戦わずとも、命を懸けずとも綺麗な衣服を纏い、暖かい部屋で過ごし、食卓を囲むわたしたちが言えることはない。

彼らに石を投げていいのは、自分と大切な人たちの命が懸かった状況でも誰も陥れずに誰も責めずに生きられる者だけだ。

何の命も犠牲にせず生きられる者など、いない。

ヒックは、自分からドラゴンのことを知ろうとしたわけではない。ずっと、倒すべき憎むべき存在だと思って生きてきた。

けれど、出会ってしまった。知ってしまった。

知ってしまったことを、見ないふりすることはできない。特に彼のように若く、純粋で、やさしい人は。

偶然知ったから、理解することができた。

彼らも自分たちと同じように生きていること。
一生戦い続ける以外の道があること。
人間がドラゴンを怯えるように、ドラゴンも人間に怯えていたこと。

知れたから、怖くなくなった。怖くないから受け入れられた。受け入れたから、より深く知ることができた。

剣を捨てたヒックに少しずつ擦り寄るドラゴンの姿。
結末を知っているのに、その姿を見る度にわたしは「あぁ、よかった」と胸を撫でおろすのだ。

「敵」なんて、最初からいなかったのかもしれない。きっとみんな、生きることに必死だったんだ。

――もしかしたらあのボスドラゴンだって、あの生き方以外に選べなかったのかもしれない。

作中では、強大で、恐ろしく、醜く、傲慢なように描かれているボスドラゴン。言うことを聞かないドラゴンを喰らい、住処を荒らす人間に激昂し、そして倒され絶えていくその姿を見て、わたしは彼女に想いを馳せていた。

ボスドラゴンは、とても大きい。雰囲気だけでなく、そもそも身体の大きさが桁違いだ。ドラゴンたちの何倍、程度の話ではない。

それだけの大きさの身体を保つのには、一体どれほどの栄養が必要なのだろう。きっと、自力の狩りだけで栄養を賄うことは難しい。人間と違って、作物を育てたり、食料を保存したりすることもできないだろう。

ああやって他者を支配することしか、きっと生きていけなかった

彼女が生き延びるには、その道しかなかったのかもしれない。彼女の目には、きっとその道しか見えていなかった。それで長い間暮らすうち、当たり前の方法になっていったのだろう。

そう思いながら観ると、ラストのあの爆発のシーンはたまらない。
子どもの頃、初めてこの作品を観た時には「ヒック!行け!!」と嬉々として興奮していたはずなのに。

わたしはもう、純粋に「悪と正義」「敵と味方」と切り分けることはできない。責められるほうの、絶えるほうの、歴史から目を背けられない。
だってわたしたちはいつか、「あちら側」に立っているのかもしれないのだから。

種族も国籍も何もかも越えて、「あなた」を見つめたい。

ヒックがドラゴンを恐れないようになったのは、単にドラゴンと接したから、というわけではない。
「ドラゴン」という大きな括りではなく、「トゥース」というひとりの命と向き合ったからだ。だから、彼はドラゴンを恐れなくなった。

以前、取材していただいた記事がYahoo!ニュースに載ったことがある。たくさんの方から意見が寄せられ、もちろんその中にはわたしたちの活動を称賛するものもあれば、糾弾するようなものもあった。

(元記事はこちら。丁寧に記事にしてくださいました。)

ひとまず、Twitterでシェアしてくれた方には全員返信することにした。
鋭利な意見を述べていた人もいたけれど、そのやりとりの中で、わたしにその刃先を向けてくることはなかった。

恐れも悪意もなにもかも、相手の「顔」が見えたら軽くなるのかもしれない。少なくとも、相手に直接向けることは難しくなるのかもしれない。

人は本当は、とてもやさしい生き物なのかもしれない。

人が何かを怖がる時、大抵はおおきく括って見ている。

「あの学校の子たちは成績もあまり良くないみたいだし……」
「あの地域の人って粗暴なんでしょう」
「あっち系の人ってなんか近寄りがたいよね」

「括るのもしょうがないよね」という旨のnoteを書いたばかりだというのに情けないが、やっぱり括るのは避けたいな、と思う。

だって、たとえ同じジャンルにいたって、一人ひとり違うんだもの。
価値観も、コンプレックスも、出生も、得意も苦手も、好き嫌いも、何もかも。

種族や国籍、年齢、性別、出生、職業、学歴。
そういうものは、括りやすい。便利なカテゴリーだ。

でもだからこそ、そういうものに頼らずに、何もかもを飛び越えて「あなた」を見つめたい。
あなた自身の考え方を、あなた自身から、あなた自身の言葉で聞きたい。

そう思うのは、ワガママだろうか。無理な話だろうか。

でも、ヒックがトゥースに魚をあげるシーン。木の枝でお絵描きをする二人の笑顔。そっと差し出された手のひらに押し当てられる額の音、に出会ってしまったから。

乗り越えた先にある鮮やかな景色を知ってしまったから、そこを目指さずにはいられないんだよ。

いつまでもここで争っていないで、新しい景色を観に行こうよ。海の先は、世界は、広いよ。さ、あの地平線の向こうまで。

***

「ヒックとドラゴン」は、Huluだと見放題です。レンタルなら、primevideo,ビデオマーケット,TSUTAYAで観れます。気になった方はぜひ。


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