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「一緒くたにするなよ!!」と言う前に、その奥にある苦しみを

人と括られることを、ひどく嫌う人がいます。

「男子ってこうだよね」
「女子ってこうだよな」
「大人って」「子供って」「オジサンって」「JKって」

わたしもなるべく括られたくないタイプなので、こういった言葉を見かけた時はすこし慎重になります。

でも、わたしは「括らずにはいられない苦しみ」を、知っているのです

例えばわたしが電車に乗っていると、こんなことが起こります。

ガラ空きなのにわざわざ隣に座ったオジサンが身体を圧迫してくる。
オジサンがいきなり手を掴んで馴れ馴れしく話しかけてきて全然離してくれない。
腕組みした肘をひとの身体に押し付けてくる。

それも別に非日常的ではなく、わりと普通の出来事です。
こういうことでなくとも、押されたり舌打ちされたり絡まれたり因縁をつけられたり、「あぁ、尊重されてないなぁ」と思う出来事は一日のうちに何度も起こります。

そんな日々が繰り返され、いくつもの悪意や好奇の目に晒されていると、だんだん「括りたい衝動」に駆られるのです

オジサンは失礼。
男性には気を付けないといけない。
どうせ男なんて。どうせ。

括ったほうが、楽なんです。

わざわざ傷つかずに済む。
悪意一つひとつに向き合わなくて済む。
しおしおに疲弊した自分を、ちゃんと守ってあげられる。

幸い、今のわたしは「ま、こういう人もいるけど、周りには良い人もいっぱいいるし」と思えていますが、中学生の時には「括ったほうが楽だよなぁ」と思っていたし、人を括って見ていました

もう、疲れちゃったんです。
一人ひとりと言葉を交わすことに疲れて、括ったほうが楽に思えた

「大人は信用できない」
「学校には敵しかいない」
「誰一人として、自分の味方になる人なんていやしない」

それ等の思い込みはわたしをズタズタに切り裂くものでもあったけれど、これ以上の苦しみを避けるためのものでもありました。

【自己紹介】とある女の子が夢を叶えるまでのお話

人を括るのは、良くないことなのかもしれません。括られた側の立場に立つと、その居心地の悪さがよく分かります。

わたしだって、本当は分かっていました。

そうでない人もいる。
全員と話をしたわけじゃない。
一人ひとり違っている。

でも、隙間にある好意や信頼に目を向けられなくなるんです。その僅かな善意を掴もうとして、黒く塗りつぶされてしまったら。それこそ、救いがなくなってしまう。

今より幸せになる道よりも、今より不幸せにならない道を選ぶことしかできなかった。

だからこそ、「括らずにはいられない苦しみ」に目を向けたいとも思うのです。

「括らずにはいられない」「括って楽になりたい」と思っている人が、括らずに人と向き合えるようになる瞬間があります。

「大人は信用できない」
「学校には敵しかいない」
「誰一人として、自分の味方になる人なんていやしない」

そう思っていたわたしをその暗闇から救い出してくれたのは、信用したいと思える大人でした。学校の中にいる味方でした。
そのおかげで、「自分の味方になってくれる人も、一人くらいはいるんだな」と知れました。

いくら括ろうとしても、人を完璧にカテゴライズすることなんてできません。「一般的なイメージ」はあっても、そのイメージにピッタリの人なんて存在しないのです。

だからいずれ、隙間から光が漏れてきます。

「本当は、全員がそうではないのかもしれないよ」

諭すでもなく、責めるでもなく、ただそうしんしんと伝えてくれる人が、きっと出てくるはず。

今、括らずにはいられない苦しみを抱えている人がもしいたら。

「こんな人もいるんだ」
「なんだ、案外いいヤツじゃん」
「ちょっと、偏って見すぎてたのかも」

いつか、そう自然に思える日が来たら、幸せだなぁと思います。


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