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家族 【か_50音】

【家族】
1 夫婦とその血縁関係者を中心に構成され、共同生活の単位となる集団。近代家族では、夫婦とその未婚の子からなる核家族が一般的形態。
2 民法旧規定において、戸主以外の家の構成員。
(出典:デジタル大辞泉)

土曜日の朝、僕らは代官山蔦屋横にあるレストラン「IVY PLACE」の窓際のテーブル席で少し遅めの朝食を食べていた(コーヒーのおかわり自由がありがたい)。窓から注ぐ初秋の陽が彼女の顔半分に当たり、瞳を紅茶色に変えている。

窓の外のオープンテラスでは30代後半と思しき夫婦と3歳位の娘と愛犬(なのだろう)のプードルがテーブルを囲み仲睦まじく話をしている。窓越しに眺めながら何の気なしに僕は言う。「家族だね」

僕の視線の先を追いかけた彼女は頷き「でも家族って、響きだけだと拘束力を感じるんだよね」と言った。

「そうかな」
「先日『万引き家族』を観て、その前に『blank13』を観たでしょ」
「うん。ふたつとも印象深い映画だった」

「あのふたつの映画、リリーフランキーがともにお父さん役という点を除いたら内容は全く違うものだけど、家族という言葉の持つ拘束力に振り回されているという点においては同じなんじゃないかって思ったの」

血縁はないけれど、一つ屋根の下で暮らし生業を共にすることで家族になっていく『万引き家族』と、切り離したいほど憎しみでつながった血縁が、離れたはずがいずれ戻ってきて家族として対峙する『blank13』。

2つの物語に共通するのは、社会が理想と掲げる家族像に引っ張られ、「こうあるべき」が植え付けられた日本中の家族が無理に足並みを揃えようとした結果生まれた歪(ひず)みの顕れなのだと、彼女は言う。

家族も個人の集まりである以上、“個体差”があって当たり前なのに、それを許容しない拘束力が家族という言葉にある、というのが彼女の持論だ。ありもしない理想をいつまでも追い求めさせる、とも。

「つまりね、家族家族たらしめていることなんて実は大したことないのに、家族だから、家族なのにって型にはめようとしてしまうの、それも自ずと。それが結果として不幸を呼ぶんだよね」

「不幸を呼ぶんだよね」と言い切られてもよくわからない。
「ちょっと待って。そもそも家族たらしめていることってなんだろう?」

「簡単なことよ。家族に必要なことなんて、おはよう、いってきます、ただいま、いただきます、ごちそうさま、おやすみなさいを繰り返し行うこと、それだけ」

ずいぶんと極端な意見だなと思いつつ、こういう時には何も言わないに限ることを知っている僕は黙って続きを待つ。彼女は店員さんにコーヒーのおかわりを告げると僕の方に向き直り迷いのない口調でこう言った。

「人と人はね、関係を型にはめようとすると距離が近くなるの。そして近くなれば手を握る力が強くなるものなの」

・・・・・・

帰り道、いつもの商店街を歩く。八百屋、肉屋、花屋、昔ながらの商店街の雰囲気が僕の住む街には残っている。

歩きながら、小学生の娘をもつとある友人の話を思い出していた。
廃れつつある地元の商店街の復興に乗り出した友人が、商店街が元気になって一番良かったことについて

「商店街のお店のおばちゃんおじちゃんたちがね、娘のことを名前で呼んでくれるようになってね。それを知ったときすごく安心したんだ。なんでか?この子を町ぐるみで育ててくれてるってわかったからだよ」

そのあと彼は「家族はね、家と一緒である程度開いておかないと淀むような気がするんだよね」とホッとした表情で話していた。

映画『blank13』のエンディングは、ハナレグミの『家族の風景』のカバーで締めくくられる。

友達のようでいて 他人のように遠い
愛しい距離が ここにはいつもあるよ

キッチンにはハイライトとウイスキーグラス
どこにでもあるような家族の風景

何を見つめてきて 何と別れたんだろう
語ることもなく そっと笑うんだよ

家族の風景』/ハナレグミ

ほどよい距離感の間柄で、互いにいつまでも残る風景があって、そんな風景を思い出した時にそっと笑い合えるような関係なら、家族を築いてみるのも悪くないな、そんなことを呑気に思った。

そこまで思ったところで「あっ」と気付いた。
「親」という漢字は「木に立って見る」と書くということを。

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