私が市議になるまでを巻き戻し【1】
市議になった私の決意
はじめまして、孝岡知子(たかおか ともこ)です。
現在、兵庫県芦屋市で、市議を務めさせていただいています。
2019年6月11日から市議としての生活が始まり、今日は2022年6月11日です。ちょうど、まる3年が経ちました。
この3年という節目を起点に、自分がどうして市議になろうと思ったのか?なぜ、ならなければいけなかったのか?市議になってわかったことなど、これまで過ごした貴重な経験をNotesに書き残すことにしました。なるべく日数を開けずに可能な限り続けて書きたいですが、できるかな(笑)
そしてもう一度、市議としての振り返りの時間としても、これからの自分を見つめ直せると思ったのです。また、これから議員を目指そうと思われている方がいたら、私の経験が少しでも何かの参考になれば嬉しいです。
こんな議員もいるんだね。というぐらいに思っていただければ。
二人の子どもが6歳と4歳の未就学児の時に出馬を決意しました。選挙期間中の4月は上の子が小学校1年、下の子が幼稚園の年中となった頃でした。そして、母の私は議員として新たなスタートを迎え、上の子は小学校生活をスタートさせたのでした。
政党という言葉を聞かれたことがあるかと思いますが、まとまった組織で政治活動をおこなっていて、いわば保守系とかリベラル系等という思想信条をもった政治活動団体です。政党は組織票(固定票)と呼ばれるまとまった団体名簿の管理の元、政治活動家が所属しているところです。国会と同じで、地方自治体でも政党の公認や推薦を受け選挙に出られる方が多く、特定の思想信条の看板を背負っておられます。
私は、そういった政党には所属していません、市議になってからもどこかの政党に所属するつもりもありません。そんな候補者のことを「無所属」といいます。
私は、無所属新人女性候補者として選挙に出馬しました。といっても、政治の知識も下積みもなかった私なので、政党が何なのかすら、この時はまったくよくわかっていなかったのです。どちらかと言うと世間知らずな方で社会は特に苦手科目でした(笑)
そして、選挙が無事に終わり、投票結果がでました。
この結果を知った時、政治には無知だった新人無所属の私に、こんなにも多く期待を持ってくださっている方がいたことに感極まる思いでした。
まちゆく中で、私に温かい笑顔を注いでくれた人々の声援を思い返していました。
また、この得票数は私一人のものではなくたくさんの方と一緒に得た票数だったと強く感じています。優しさに包まれていたアットフォームな手作り選挙だったからです。
市議を目指そうと決意したのは5ヶ月前の11月頃のことでした。政治活動といっても、何から初めていいのかもまったく手順すらわからなかった選挙素人の私です。何もかもが手探りでした。
選挙プロである業者や、詳しい人に頼めばある程度の段取りを教えてくれたのかもしれませんが、その発想は私にはまったくありませんでした。誰の基盤も受けずゼロからのスタートになるので、選挙管理事務所への問い合わせがとても多い候補者の一人だったと思います。
個人事業主として自宅で仕事をすることを決めた時も、株式会社の手続は行政書士に頼まず、先に自分で足を運んで手順の聞き込みからはじめました。型にはまらなくても、まずは自己流でもいいから、自分でやりとげられると思うタイプなのかもしれません。
選挙が近づくにつれ、徐々に私が出馬を目指しているということが周りの方にも囁かれるようになっていきました。そして、設立した後援会の政治活動を応援してくれるようになったのです。たまに、へこたれて弱音を吐く時もありましたが、そんな時はいつも誰かが手を差し伸べて助けてくれていました。励ましてくれていました。
私の選挙を手伝ってくれた周りの人たちは、どちらかと言うと私と一緒で、選挙なれしていない、政治なれしていない人たちばかりでした。
だからこそ側で共に考えながら、一緒に挑んでこれたのだと思います。目指す先に同じ希望を持っていたからです。こんな私にその思いを託し、たくさんの方が知恵と力をつけてくれました。そのことがなかったら、きっと、まともにカタチとなる選挙運動すらできていなかったと思います。
芦屋市は約9万人の人口都市です。今期は20期生となる芦屋市議会議員ですが定数は21名、そのうち女性議員は5名。その中で無所属議員は私一人でした。
私が、市議になったのは、政治家になりたかったからではありません。ただ、市民の代表として説明責任を果たせる代弁者になりたかったのです。
そんな皆さんが送り出してくれた御恩を必ず返そうと、そう強く決意を抱き、芦屋市議会へと飛び込んだのでした。