見出し画像

夜のまなざし。

 その日、僕は割と遅くまで仕事をしていた。徒歩通勤なので電車の時間が気にならないこともあって、いつも成り行きで仕事をしてしまうのだ。サラリーマンでもなく気軽なもので、“一人ブラック企業”などと自嘲気味に人には話したりしている。
 たぶん事務所を出たのが23時頃だったと思う。深夜というほどでもない、日付が変わらないうちに家にたどり着きたい人がカツカツあるいているような時間帯。なかには酔っ払いもいる。
 いつもの革ジャンにニットの帽子。GAPのスリムなジーンズに合成皮革の安い靴。代わり映えのしない出で立ちでリュックを背負い、両手をジーンズのポケットに突っ込んで歩き始める。昔から歩いたりジョギングしたりするときに音楽は聴かない。音楽で自分を閉じこめるというよりは、街の雑音をなんとなく聞き止めながら歩くほうが安心するのだ。大袈裟に言うと、この世にいる感じ?
 そしていつも同じ道を歩くわけでもない。気まぐれな散歩のようなイメージ。あの日は、繁華街を通り抜ける道と並行に走っている静かな道を選んで帰っていた。駅の方向から時折、パラパラと人が歩いてくる、外灯だけが頼りの少し暗い道。月が出ていたかどうかも覚えていない。あまりに日常的な、目新しいことがなにもないはずだった帰り道。
 しばらくすると、以前、殺人事件のあった公園が右手に現れる。池の中の亀が人体の断片を咥えていたという、あの事件だ。それ以来、不穏な出来事が起こらないように大きな木の枝は剪定されほとんどの死角がなくなっていた。その分、なんだか丸裸にされたような、平板な印象の公園になってしまった。ここを通るたびに、全てが見えればいいというものでもないよなと思う。
 その日もそんなことをきっと考えながら大通りの交差点までやってきたはずだ。信号は赤で、そこに立ち止まっている人は僕も入れて五〜六人というところ。信号待ちをしているときには気づかなかったのだけれど、横断歩道を渡り始めると、私の斜め前に二十代前半といった感じの女の子が歩きながらこちらを見ているのがわかった。ちょっと微笑んでいて、かすかに淫靡な感じ。流し目で誘っているような雰囲気。
 まぁ、常識的に考えれば、平凡な僕にそんなメッセージが投げかけられるわけがない。勘ぐり過ぎもいいところだ。その証拠に彼女は、そのまま横断歩道を渡り夜の住宅街に消えていったではないか。自分の馬鹿さ加減を心のなかで笑って、スーパーの脇の道を自宅方向へ曲がった。
 そこには街灯の光があまり届かない、緑道のような小さな木々の緩衝地帯がある。いつもは滅多に目をやったりしないのだが、そこに女の子がいた。
 信号待ちのときと違って歩いていたのは僕一人だから、女の子の視線は明らかに僕に向けられていた。緩やかにウェーブした肩までの髪。赤いルージュ。木に寄りかかっていた体を起こし、女の子は僕の方へ歩き出したかもしれなかった。

#一駅ぶんのおどろき #散文 #エッセイ #帰り道 #歩き #徒歩

サポートしていただけたら、小品を購入することで若手作家をサポートしていきたいと思います。よろしくお願いします。