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「わからなさ」というのりしろ。

「どんな別れのときを迎えるのか、それを思うと一読者である自分も寂しくなった」

そんな内容の、とあるTwitter氏の投稿が目に入った。彼をフォローしているのかもしれなかったが、Twitter氏とは直接的なつながりはないと思う。
だが、この言葉は妙に私の気持ちの中に飛び込んできた。

書き手と同じように、一読者に過ぎない自分自身も登場人物たちとの別れが寂しい。そんなことを思わせる本とはどんなものなのだろうか。

それは芥川賞作家、滝口悠生さんの
『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』という本だった。
滝口悠生さんのことはそれまで全く知らなかった。
本の内容もわからず、さして調べるでもなく、ポチリとした。

『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』は、日記だった。
当たり前だ。書名にも「(アイオワ日記)」とあるではないか。
そんな情報もあまり頭に入らないまま、とにかく買ってしまったのだ。

そしてそれは、アイオワで実施される「IWP(インターナショナル・ライティング・プログラム)」に滝口悠生さんが参加した際の、日々の記録だった。

「インターナショナル・ライティング・プログラム」?

これも知らなかった。

これは、アメリカ・アイオワ大学で毎年開催されているプログラムだ。
世界中から選ばれた一握りの作家たちが約三か月にわたってアイオワに滞在し、その間に、他の作家たちと交流を重ね、地元の図書館や書店で朗読やワークショップを開催し、創作活動を行うというものだそうだ。

これまで日本からも数多くの作家が参加しているらしい。

このプログラムに、2018年に参加したのが滝口悠生さんで、
そのレジデンス期間に起こった出来事をまとめたのが
『やがて忘れる過程の途中(アイオワ日記)』である。

この本は、わからなさに満ち溢れている。
なにせ書いているご本人が、いろいろなことがわかっていないまま、
さまざまなことが進行していくのだ。
滝口さんは英語が苦手だ。だから、コミュニケーションに気後れがある。
ブリーフィングのように説明されるその日のスケジュールも、
とっさにはわからない。
出会ったばかりの一国一人の作家たちの名前もなかなか覚えられない。

こういう公的な手続きや講習に際しては、当該するひとが呼び出されて受講したり、事務的な作業をしたりする。やたら説明が長く、私は例によってほぼなにをしているのかわからず、ビザやパスポート関係となると、本当は理解していないといけない気がするのだが、わからないものはわからない。前で話している担当者は、英語がほとんどできない者がいるとは想像もしていない様子で大変な量のなにかをアナウンスしている。

さまざまな場面で、こんなわからなさに遭遇しながら、
滝口さんはレジデンスを進めていく。

でも、やがて滝口さんは、自前でサンドイッチをつくり、
買ってきたビールを飲み、あやふやに覚えた名の作家たちと散歩をし、
お気に入りのバーを見つけ、
徐々に「ユウショウ」のポジションをつくりだしていく。

やがて仲の良いグループが生まれ、
お互いの作品についても知り、ワークショップを覗いたりして、
関係性が深まっていく。

でも、私が惹かれたのは
徐々に理解が進むそのプロセスではなくて、
むしろ、
わからなさの直中に居続ける滝口さんの姿だ。
当事者としては、この上なく大変だったかもしれないのだが、
わからなさを受け入れる姿勢というか、
ある種の諦めというか、
わからなさの大き過ぎるのりしろの豊かさというか、
全篇ににじみ出る縮めることのできない距離感のようなものが
おもしろかった。

わからなさは、いかにイマジネイティブでクリエイティブなことなのか!

僕たちは今、いろいろなことをわかろうとし過ぎているのかもしれない。
わからないという緩衝地帯があることを許す関係のほうが、
きっと生きやすいんじゃないか。

それは誤読を生むかもしれないけど、
それもまた大切なのりしろのような気がする。

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