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「映画のワンシーンのような写真」というキャッチフレーズに縋るのを止めたくなった。

私はTwitterのプロフィール欄に、「映画のワンシーンのような写真を目標に、主に人物写真を撮影しています。」と記載している。
その言葉に嘘はないし、実際、これまでの数年間は、鑑賞者に映画のようなストーリーを想起させるような写真を撮るように、そしてその意図を伝えることができるように努めてきた。
年に2、3回のペースではあるものの、予め考えた脚本に基づいた作品も撮ってきた。

そうしているうちに、徐々に写真を見てくれる人が増え、「あの『映画のワンシーンのような写真』を撮る高埜さんだ」と覚えていただけることも多くなった。
しかし最近になって、「映画のワンシーンのような写真」という言葉が一人歩きをし始め、自分が撮影している写真そのものから解離しているような感覚に襲われるようになったのも事実だ。

先月、三浦えりさんとのオンライン対談で、「高埜さんが考える、映画のような写真って何ですか?」と尋ねられた時、上手く答えられない自分がいた。
キャッチフレーズがたまたま少しウケたからといって、その言葉の意味について深く考えることを放棄し、あぐらをかいて写真を撮り続けてきた結果だと思った。恥ずかしかった。

幼い頃から、小説、詩、漫画、作曲など、自己表現の手段を探っていた私は、新たな表現手法である写真に目をつけたものの、ただ単に目の前にあるものに対してシャッターを切るだけでは満足がいかなくなっていた。
そのような中で、私が一番初めに脚本とまではいかないもののストーリーを考え、それに基づいた作品を撮ったのは、2017年の6月だった。

そして2018年3月に、twitterで#写真に黒帯を入れて映画のワンシーンのような1枚にする遊びというタグが私の所まで流れ着き、軽い気持ちで自分の写真に黒帯と字幕を入れて投稿をした。

この投稿がきっかけとなり、4枚の写真の組み合わせで物語の流れを表現することの面白さを実感した私は、自分の撮る写真を総称するためのキャッチフレーズとして、「映画のワンシーンのような写真」という言葉を対外的に使用するようになったのだと思う。

それから、約3年の月日が経った。
気軽に写真に黒帯を入れることのできる画像加工アプリ。4枚組の写真で起承転結を表現することができ、しかも分かりやすいキャッチフレーズが共感性を集めやすい媒体であるtwitter。これらの要素が組み合わさった環境で生み出された「映画のワンシーンのような写真」は、SNSの世界では、比較的安易に人気を集めやすいコンテンツだったのだろう。

写真を映画風の色味に加工するプリセットが販売されたり、映画のような写真を撮るための技法を特集した記事が公開されたりといった動きが活性化するのと並行して、自身の作品を「映画のワンシーンのような写真」と呼称する写真家の投稿もよく目にするようになった。

そういったSNS界隈での動きと自分の写真を客観的に見つめた時、私の中で抗えない疑問が浮かんできた。

なぜ私は、写真そのものの本質を見つめようとはせず、別の映画という媒体になぞらえた上で、自分の作品を表現しているのだろう。
私は、鑑賞者が元々持っている好きな映画(主に懐かしさを想起させる類の映画)のイメージにただ乗りしようとしてはいないか。
私は、自分が本当に撮りたい写真のあり方を、矮小化とまではいかないものの、単純化・パッケージ化しているのではないか。

2ヶ月ほど前の記事「雨の日に思う 名付けるという行為が孕む絶望と救いについて」にも似たようなことを綴ったが、とある感覚を名付けるための言葉を選んだ瞬間に、名付けられなかった残りの感覚は削ぎ落とされ、忘れられてしまう。
私が「映画のワンシーンのような写真」というキャッチフレーズを使い回しているうちに、そのキャッチフレーズの枠から外れた表現の可能性のかけらたちは、私に見つけてもらうこともなく、寄る辺を無くしているのではないか。

これらの疑問に対する答えは、今はまだ持ち合わせていない。きっと、この先写真以外の表現手法に流れついたとしても、何十年もかけて答えを探すことになるのだろう。
ただ、これだけは確かに言える。
私の表現活動は、私自身が掲げたキャッチフレーズによって生かされていると同時に、殺されようとしている。

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