2020.6.14.(日)② 「みえないもの」
昨日は日記を書いたあと、DOMMUNEをずっと見てた。
テーマは「みえないもの」。
19時から1部のトークセッション。二人の物理学者との対話、面白かった。「超ひも理論」の「ひも」は楽器の弦のようなもの、という話。(ちゃんと理解できているかどうか自信がない...) 音楽は楽典にせよ音響にせよ、数学的であり科学的だが、サイエンスの先端も音楽的だということか。
「原始の音楽は誰のためのものだったのか?」という問い。聴衆すらいない儀式、あるいは神への捧げものだったのではないか?という仮説。翻って、自分はなんのために音楽を作り、奏でているのか?と、自問自答する。いつも「時代を超えて残る作品を」という目標はある。時代の先のことはともかく、ならばたった今、何のために、誰のために、創り、奏でているのか? このエンターテインメント受難の時代に。
トークが盛り上がりすぎて、FISHMANSのライブは予定を大幅に過ぎた時間に始まった。初期の曲がかなり多かったので、「ネオ・ヤンキース・ホリデイ」から聞き始めて「空中キャンプ」からライブに行き始めた僕にはかなり新鮮なセットリスト。中期〜後期のダビーでダウナーな感じは薄く、エネルギーに満ちている感じ。スカパラを経て大樹のようにどっしりとした欣ちゃんと、そこから枝葉のように伸びるメンバーの一体感。誰かが「佐藤くんと欣ちゃんが一体化してた」とツイートしてたけど、欣ちゃんは完全にヴォーカリストだった。
クリエイティブ集団「stu」のAR演出と組み合わさった映像のスイッチングは宇川さんらしいバッキバキの世界観で、ZAKはアナログのコンソールでタイトにチューニングされたDOMMUNEの小屋を鳴らし切る。当初、低音が聞こえづらかったりしたが、リスナーのチャットの声を拾って音はどんどん配信に最適化されていき、終盤は本当にいい音だった。ちゃんとミックスしたライブ音源を録画して配信すればもっと安定して聴けるんだろうけど、予定がずれ込んだり、だんだん音が変わっていったり、そんなハプニングや変化を共有するからこその生。最近は「換気タイム」が生配信の常識になってきた。
配信ライブに出演するとき、演者は拍手がないからどこに向かって演奏しているのか迷うことがある。昨日のFISHMANSには戸惑いを超えた生々しさがあった。エンドロールには「佐藤伸治に捧ぐ」とあった。佐藤くんのための演奏だったからこそ生まれた一体感。アンコールはなし。アンコールがないと物足りないとつい思ってしまうけど、それも「習慣」に過ぎないのかもしれないなと思ったり。
みえない客をイメージしてバンドが一つになるのは、演者にとってはかなり難しい。ずっとリアルなステージでお客さんと双方向にエネルギーを高めるライブを続けてきたパフォーマーほど、そこに違和感を感じてしまう。だから、みえない「なにか」に向かって奏でる気持ちを持つことこそが、特に配信ライブには必要なのかもしれない、そんなことも考えた。
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