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忍者は実在した! 足利将軍や信長を翻弄した伊賀・甲賀の忍びたちの活躍とは

「忍者」「忍び」といえば、すぐに思い浮かぶのが戦国時代に、黒装束で、超人的な身体能力をもって諜報活動に従事した人々でしょう。その存在は日本だけでなく海外にまで知られ、いまや「Ninja」はハリウッドで様々な映画に登場するなど、活劇では欠かせない人気キャラクターになっています。それもあって、私たちは忍者イコール荒唐無稽な存在と思いがちですが、映画などで誇張された能力はともかく、彼らが実在していたことは事実です。本日は忍者がなぜ生まれ、実際にどんな活躍をしたのかをまとめた記事を紹介します。

甲賀の飯道山

20数年前の夏、滋賀県甲賀(こうか)市の飯道山(はんどうさん)に一人で登ったことがあります。「近江の大峰山(おおみねやま)」と呼ばれる修験道の聖地であるとともに、甲賀忍者が修行した場所という伝承もあります。標高は664mですが、十分な下調べをせずに、ポピュラーな飯道神社側の登山口でなく、別の道から登ったせいか、かなり険しく感じました。山頂付近で飯道寺跡の巨石群を眺め、石段が続く行者道に、修験者たちの息遣いに接した気がしたものです。今思えば、それは修験者と関わりの深い甲賀の忍びたちの息遣いでもあったのでしょう。

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なぜ伊賀と甲賀なのか

忍者は、歴史的には「忍び」と呼ばれます。その存在が確実に史料で確認できるのは南北朝時代(1336~92)以降ですが、伝承では聖徳太子が「志能備(しのび)」である伊賀(現、三重県北部)の大伴細人(おおとものほそひと)を使ったとも(細人は甲賀出身という説もある)、また天智(てんじ)天皇の頃、伊賀・伊勢(現、三重県北中部他)にて藤原千方(ふじわらのちかた)が4匹の鬼を操り、抵抗したという話もあります。伝承とはいえ、古代から伊賀や甲賀が忍びたちのホームグラウンドと語られている点は興味深いところです。

では、なぜ伊賀と甲賀が忍びたちを生んだのか。また彼らは何者で、戦国時代にどんな活躍をしたのかについては、和樂webの記事「忍者のイメージってどこからきたの? 謎に満ちた実態に迫る」をぜひお読みください。

天正伊賀の乱の後に

記事はいかがでしたでしょうか。足利将軍を陣没に追い込んだ甲賀忍び、あの織田信長の命をたびたび脅かし、織田軍相手に壮絶な戦いをくり広げた伊賀忍びの活躍ぶりがお伝えできたことと思います。

その後、伊賀・甲賀の地侍は、一度は信長の三男・信孝(のぶたか)の配下に組み込まれ、四国征伐に赴くことになりますが、渡海直前に本能寺の変が起こると、信孝軍は四散。信孝軍がなぜすぐに崩壊したのか以前から疑問でしたが、伊賀・甲賀の者であれば、織田家に忠誠心があるわけでなく、さっさと退散したのでしょう。さもありなんという気がします。

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また伊賀・甲賀の少なからぬ者が、徳川家康を頼っていき、家康は彼らを召し抱えました。やがて家康が江戸を本拠とすると、伊賀・甲賀の者たちは伊賀同心、甲賀同心となり、伊賀組、甲賀組と呼ばれる鉄砲隊に組み込まれる一方、通常は江戸城の警備にあたることになります。この伊賀組の組頭が服部半蔵正成(はっとりはんぞうまさなり)で、彼の屋敷が江戸城麹町(こうじまち)口門の前にあったので、その門を半蔵門と呼ぶようになったのだとか。次回は伊賀・甲賀以外の忍びたちの記事を紹介します。



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