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信長が最も評価していた家臣は明智光秀だった! その足跡を追い、謎に迫る

大河ドラマ『麒麟がくる』では今(2020年4月末)、美濃(現、岐阜県)において、斎藤道三(さいとうどうさん)と息子義龍(よしたつ)の対決の時を迎えようとしています。尾張(現、愛知県西部)では織田信長(おだのぶなが)が、清須(きよす)城の守護代を滅ぼしました。この辺は史実を踏襲していますが、主人公の明智光秀(あけちみつひで)の行動は、すべてドラマの演出です。光秀の行動が同時代史料で確認できるようになるのは、信長に仕えてからのことなので、ドラマではもう少し先になるでしょう。

今回は信長に仕えてからの光秀が、いかに目覚ましい出世を遂げていったか、そのあらましを史実に基づきながら追った記事を紹介します。ドラマの予備知識としてお読み頂ければ幸いです。

信長にとって得難い人材

明智光秀の前半生がまったくの謎に包まれていることは、以前に和樂webの記事を紹介しました。ご関心のある方は、まずこちらをご一読頂くと、今回紹介する記事もよりわかりやすいかと思います。

明智光秀というと、「本能寺で信長を討った」イメージが強いので、織田家の重臣として働く中で、さぞやストレスを抱えていたのではと想像するかもしれません。しかし実際は、譜代の家臣ではない、いわば途中入社の光秀を、信長は極めて高く評価していました。たとえば信長が、ある領地を統治する「城主」として初めて認めた家臣は、近江(現、滋賀県)坂本城の光秀であったといわれます。

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出世争いのライバルとなる羽柴秀吉(はしばひでよし)と比較しても、常に光秀がリード。また信長に仕え始めた頃、光秀は将軍足利義昭(あしかがよしあき)に仕える幕臣でもありました。足利義昭の下では格上の幕臣に細川藤孝(ほそかわふじたか)がいましたが、藤孝が織田家に仕えるようになると、信長は藤孝を光秀の組下につけています。それほど信長は、光秀を買っていました。武将としての戦功だけでなく、困難な京都の統治などをやってのける光秀は、文官としても優れており、信長にすれば得難い人材であったのでしょう。

なぜ謀叛を起こしたのか

では、それほど自分を買ってくれていた信長を、光秀はなぜ本能寺で討ったのでしょうか。これまで小説やドラマなどでは、信長が光秀を気に入らず、暴言を吐いたり、折檻(せっかん)する場面などがよく描かれてきました。そうした日頃の恨みが積もって、本能寺の変を起こしたとなれば、読者や視聴者には非常にわかりやすいわけですが、しかし、史実の信長は光秀を高く評価しており、矛盾します。

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光秀もまた、本能寺の変の1年前に定めた家中軍法で、「子孫に至るまで信長の恩を忘れてはならない」と、感謝の気持ちを述べています。そんな光秀が、なぜ謀叛を起こさなければならなかったのか。 その大きな謎を念頭に置きながら、和樂webの記事「信長期待のエリート部下、明智光秀。その活躍と裏切るとは思えない行動とは?」をぜひお読み頂ければ幸いです。

穏やかな教養人というだけではくくれない

さて、記事はいかがでしたでしょうか。光秀の足跡をたどってみても、本能寺の変の直前まで、その動機となりそうなものが見当たりません。記事にも書きましたが、すると謀叛の要因は、本能寺の直前に起きた「何か」だったのでしょうか。本能寺の変の謎については、次回、それに特化した記事を紹介する予定です。

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また、足跡をたどって改めて感じるのは、光秀が優秀な人物であったのは間違いないだろうということです。かつては「革新的な天才肌の信長」に対し、「保守的な教養人の光秀」という図式で小説やドラマでもよく描かれてきました。

しかし、比叡山焼き討ちの主軸になった点などを見ても、ステレオタイプな穏やかな教養人というだけではくくれない、戦国武将としての激しい一面を持っていたようにも感じます。そうした、これまであまり語られなかった側面にも脚光を当てていくことで、もしかしたら本能寺の変の動機の手がかりが見つかるかもしれません。次回、謀叛の動機を探りますので、どうぞお楽しみに。

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日本の歴史が好きで、歴史雑誌の編集もしていました。好きな時代は戦国、江戸、幕末、近代等々。歴史好きが日々の中で感じたこと、またかつて取材で体験したことなどを紹介しつつ、歴史の魅力をお伝えしたく思います。歴史を知るとは、人間そのものを知ること。一緒に先人たちの知恵を探りましょう。
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