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戦国時代カレンダー 今日は何の日? 【8月2日~8日】


戦国時代の今日の日付にはどんなことがあったのか? 1週間ごとにお伝えします。ぜひ「ああ、今日はそんなことがあった日なんだな」と思いを馳せてください。毎週日曜日に更新する予定です。
なお、日付はすべて旧暦ですので、現在とは約1ヵ月のズレがあります。31日はありません。


8月2日 岩成友通没

天正元年(1573)8月2日(旧暦)、岩成友通(いわなりともみち)没。三好三人衆(みよしさんにんしゅう)の一人として知られ、将軍足利義輝(あしかがよしてる)を討ちますが、織田信長に臣従。が、足利義昭(よしあき)が信長と敵対するとこれに呼応し、居城の淀(よど)城(淀古〈よどこ〉城、京都市伏見区)を細川藤孝(ほそかわふじたか)らの軍勢に攻められ、下津権内(しもつごんない)に討ち取られました。

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8月3日 伊達政宗誕生

永禄10年(1567)8月3日(旧暦)、出羽米沢(よねざわ)城(米沢市)で伊達政宗(だてまさむね)誕生。幼名梵天丸(ぼんてんまる)。伊達16代当主輝宗(てるむね)の嫡男です。15歳で初陣を飾り18歳で家督を継ぐと、拉致(らち)された父輝宗を敵ごと撃たねばならない悲劇を乗り越え、奥州の覇者を目指して躍進することになります。

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8月4日 黒田長政没

元和9年(1623)8月4日(旧暦)、黒田長政(くろだながまさ)没黒田官兵衛(くろだかんべえ)の嫡男で、幼少の頃は人質として羽柴秀吉に預けられ、竹中半兵衛(たけなかはんべえ)に命を救われたことも。関ヶ原合戦では吉川広家(きっかわひろいえ)、小早川秀秋(こばやかわひであき)らを調略し、東軍への内通に尽力、東軍勝利の最大の立役者といっても過言ではありません。

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8月5日 家康、木曾義昌攻撃を命令

天正14年(1584)8月5日(旧暦)、徳川家康は信濃(現、長野県)衆の保科正直(ほしなまさなお)に対し、木曾義昌(きそよしまさ)への攻撃を命令。小牧・長久手(こまき・ながくて)の戦い勃発(ぼっぱつ)に伴い、義昌が家康方から秀吉方に転じたためでした。しかし家康と秀吉が講和するに及び信濃諸将は家康傘下となり、義昌の選択は裏目に出ます。

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8月6日 秀吉、朝鮮出兵準備を命令

天正19年(1591)8月6日(旧暦)、豊臣秀吉が朝鮮出兵準備命令を発布。前日の5日、秀吉の息子鶴松(つるまつ)が3歳で病没し、秀吉は悲嘆の余り元結(もとゆい)を切り、諸大名もこれにならいました。出兵準備命令は、息子を失った悲しみを紛らわせる側面もあったといわれます。

8月7日 御ツマキ没

天正9年(1581)8月7日(旧暦)、この頃、明智光秀(あけちみつひで)の妹「御ツマキ」没。実妹か義妹かは不明ですが、織田信長に仕えて大変気に入られており、その死に光秀は落胆しました。ツマキの存在が光秀の活躍を後押ししていた可能性もあり、本能寺の変の遠因になったともいわれます。

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8月8日 北条氏直、若神子城に布陣

天正10年(1582)8月8日(旧暦)、北条氏直(ほうじょううじなお)が甲斐(現、山梨県)の若神子(わかみこ)城に布陣。信濃諏訪(すわ)を押さえていた徳川家の酒井忠次(さかいただつぐ)を、追い払ってのことでした。これに対し家康は韮崎の新府(しんぷ)城に軍勢を進め、北条勢と対峙します。武田(たけだ)遺領をめぐる争奪戦・天正壬午(てんしょうじんご)の乱の一コマです。

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【8月の戦国武将生没日】

8月1日・鳥居元忠没
8月2日・岩成友通没
8月3日・伊達政宗誕生
8月3日・豊臣秀頼誕生
8月4日・毛利隆元没
8月4日・黒田長政没
8月4日・堀尾忠氏没
8月5日・小野寺義道誕生
8月5日・伊東義祐没
8月6日・青山忠成誕生
8月6日・保科正俊没
8月8日・北条氏邦没
8月11日・筒井順慶没
8月12日・京極高知没
8月12日・小笠原貞慶誕生
8月14日・山崎吉家没
8月15日・北条早雲没
8月15日・山中鹿介誕生
8月15日・水野勝成誕生
8月17日・北信愛没
8月18日・豊臣秀吉没
8月18日・立花宗茂誕生
8月20日・細川藤孝没
8月20日・朝倉義景没
8月21日・宇佐美定満没
8月21日・朝倉景健没
8月22日・黒田職隆没
8月24日・長尾景春没
8月25日・浅野幸長没
8月28日・和田惟政没
8月29日・加藤光泰没

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