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【掌編】ナイト・カフェ

 静かな雨の降る夜だった。僕は道端にうずくまっていた少女に傘を差し出し、昔なじみのマスターが経営する小さなカフェへと誘った。僕も彼女も腹を空かせていた。彼女はイタリアン・スパゲティを、僕はハンバーグ・ステーキを注文した。二人の皿はあっという間に空になった。メロンソーダとアイスコーヒーが運ばれてくると僕は僕の話をし、それから彼女の話を聞いた。彼女の持つ大人のイメージに、そのいささか偏りの強い認識に少なからぬ修正を加えようとして僕は僕なりに奮闘した。その効果の程は定かではなかったが、一時間半前にはなかった信頼感のようなものが、ほんの少しではあるが僕たちの間に芽生えつつあった。
「人生に意味なんてあるの?」
「どうかな」
 年若いJKの問いだ。真面目に応えてやってもよさそうなものだが、僕という器の中にはこの場に差し出すのにふさわしい言葉が何ひとつなかった。結局、年月が過ぎても学ばなければ同じことなのだ。人生には意味があるか、という命題の前において、僕と少女は何も変わらなかった。
「河村さんには無いの? 人生の目標とか」
 痛いところを付いてくる。純粋とは、つまり鋭利だということだ。
 夜回り先生の真似事をして家出少女を捕まえたはいいが、僕に言えることなんてそもそも何もないということに、もっと早くに気がつくべきだったのだ。賢明に、思慮深く選択肢を選んでいれば、いまごろは妻と和解できていたかも知れない。昨夜のつまらない言い争いにおける自らの非を認め、シャトレーゼで買ったガトーショコラでも奉納していれば、良き夫としてそれなりに安定しつつある地位を無事に取り戻せていたかも知れない。でも現実には、僕はここにいる。これが僕の現実なのだ。
「金メダルに歯型を残すことかな」
 深夜のカフェ・レストランにはほとんど客がいない。あと一時間で閉店だし、件の感染への警戒が理由なき滞在を拒絶している。理由というか、世間へ向けた説得力のある説明。まったく、息苦しい。そうしたフラストレーションも僕をここに引き寄せた要因のひとつかも知れない。僕にホテルの予約を取らせ、夜回り先生の後継人を演じさせたものの。
 少女は呆れ顔すら作らず、じっと僕の目を見つめている。僕はアイスコーヒーをすすり、鞘に手をかけたままじりじりと後ずさる時代劇の侍みたいに、然るべき時間をかけてガラスコップをテーブルに置いた。それからとくに理由もなく破れたおしぼりの袋を両手の指でいじりまわした。その間ずっと、少女は僕のことを見続けていた。これほど長い時間、一人の女性から見つめられているなんて初めてのことだった。
 僕はにらめっこを諦め、誰にともなく頷きながら狭い店内をぐるりと見回し、それからもう一度少女を見たが、少女の目は僕の顔の同じところを同じ表情のままずっと見続けていた。彼女の視線の終着点は僕の眉間あたりにある空間の一点に釘付けされてしまったようだった。
「昔はね、陸上のプロを目指していたんだ」
 僕は仕方なく本当のことを言った。少女はようやく表情を和らげ、それで? という風に目の回りの動きだけで先の言葉を促した。僕は促されるままに言葉を継いだ。
「だから馬鹿みたいに聴こえるかも知れないけど、金メダルに歯型を残すというのは僕の夢だったんだ。実際のところ。一生懸命練習もした。人一倍、二倍三倍、努力した。でもうまくいかなかったよ」
「それはなにか意味のあることなのかしら、人生にとって?」
 なんだか説教を受けている気分だった。あなたはちゃんと意味のある人生を生きてきたのですか?
「そうだな、これは昔高校の美術の先生が言ってたことの受け売りなんだけどね、『人生は白いキャンバスで、生きるというのはそこに絵を描くということである、完成した絵の意味とか価値とかそういうのは、批評家や後の世代が勝手に考える』」
 僕はひとりで頷いた。
「割と好きだったな、その先生」
 少女は特に感化された様子もなく続けた。
「それで、河村さんはいまどんな絵を描こうとしてるの? 歯型のついた金メダルの絵は、もう描かないんでしょ?」
 僕は息を吸い、吐いた。そのとおりだ。それにしても、最近の若い子は忖度という言葉を知らないのだろうか。近頃のメディアなり政治家のせいだな。他者を慮るということは、それ自体悪ではないのに。いや、そうじゃない。この子は知りたいだけなのだ。ニュースや世間や周りの大人たちが示してくれないことを。表層ばかりが繕われたこの社会で、生身の人間たちの間で起きている本当のことを。
 ただ問題があった。彼女の望みを叶えるためには、僕はあまり適切な人材じゃないということだ。世の中の裏事情に詳しいわけでもないし、日々に氾濫する答の無い諸問題に対していちいち独自の解釈を持てるほど頭も良くない。凡庸で、退屈な、どこにでもいる凡人だ。そのへんの大人が知っていることは知っているが、そのへんの大人が知らなさそうなことはよくわからない。だからこそ少し、背伸びをしてみようなんて馬鹿なことを考えたのかも知れない。そうすれば壁の向こうに、知らない世界を見つけられるかも知れないと思って。でも、まあ難しい。ちょっとかかとを上げたくらいで向こう側が覗けるほど、壁は低く作られていないのだ。
「うん。でもこれといって無いんだよ。次の夢というか、目標というか、少なくとも君が聞いて納得できそうなものはね。悪いけど」
 少女は別段落ち込むでもなく、まあそうだよね、という風に俯きがちに頷きながらもぞもぞと動いて足を組み直し、メロンソーダの続きを飲んだ。僕はなんだかがっかりしてしまった。一体何をしているんだ? 久しぶりに残業を回避できた金曜の夜に。妻には新人の歓迎会があるなんて嘘をついてまで。
 彼女が咥えたストローの中を、濃い緑色の液体がすうっと遡っていく。ぶるっと震えたスマートフォンの画面をちらりと見て、すぐにロックボタンを押す。大方親から連絡が入ったのだろう。少女の眉間に不満げな皺が寄る。
「大人ってどうして子供に夢を持たせたがるのかしら?」
「去りし日の自分を重ね合わせているのさ」
 僕はそう、適当に答える。大人の悪い癖。
「そんなことして何になるの」
「何にも。ただそうせざるを得ないんだ。夢がそうさせるのさ。打ち捨てられ、もう二度と日の目を見ることのない夢の亡霊がね」
 つまらない嘘をつくと、つまらない言い訳が必要になる。
「虚しくないの?」
「選択の余地はないんだ。君が考えているほど大人って、賢い生き物じゃないのさ」
 のらりくらりと、時間をやり過ごす。僕の人生そのものみたいに。
「河村さんは少しはまともに見えるわ」
 僕は苦笑した。このほかに可能なリアクションがあるなら、だれか教えてほしい。僕は組んでいた腕をほどき、ややのけぞり気味だった姿勢を正す。それから少女の目をしっかりと見据えて言う。
「ありがとう。でもそんなことはない。君が僕の、自分の子供だったら、こんな風には話せないと思うよ」
「どうしてなの?」
 大切だからさ。そう言おうと思ったが止めた。嘘ではないが、正しく伝わることもない。僕は頭蓋の中に収まった、あまり優秀とは言えないプロセッサを精一杯働かせて、適切な言葉を引き寄せようとあがいた。それから少しして、割合意味のありそうな言葉が、ガチャポンのボールみたいにしてころころと転がり落ちてきた。その気になれば、僕だってまだまだ捨てたものじゃない。
「距離だ」と僕は言った。そう、距離だ。
「距離が近いと、僕たちはなんとかなると思いがちなんだ。手を伸ばせば届くし、何かが起きても間に合うって考える。実際、大抵のことはなんとかなる。ずっと見てきたから、お互いにちゃんと知ってると思ってる。わかってると信じ込む。その分だけ、慎重じゃなくなるんだ。受け答えがいい加減になっちゃうんだな。それでいざなにか大切なことを伝えようとしても、うまくいかなかったりする。あまりに距離が近いと、それは他人じゃなく、自分の一部であるような気がしてくる。寒い冬、かじかんだ右手の指が思うように動かないと、僕らは指を開いたり閉じたりして、ちゃんと動くか確かめようとするだろう? それと同じようにして、相手が自分の思うように、願うように動いてくれないと、気持ちが悪かったり、自信を失ったりするんだ。相手は自分とは違う人格を持つ別個の人間で、最も基本的な価値観さえまったく異なっているかも知れないという、至極当たり前のことすら受け入れられなくなる。自分ならこうするのに、こうしたいのに、なんでうまくいかないんだ、こんなのは間違ってる、ってね。それがどんなにささいなことでも気になるのさ。だから難しいんだよ」
 少女は思案げに横を見、しばらくじっと考えていたが、合点がいったようにしてひとりで頷くと、また僕の方を向いた。
「なかなか説得力はあるけど……奥さんと喧嘩でもしたの?」
 女性は恐ろしい。これじゃどっちが先生なんだかわからない。僕は思わず口元をほころばせ、メニュー表を引き寄せて一番うしろのページを開いた。昔ながらの、しかし時と共に洗練されてきたスイーツ・メニューが並んでいる。
「デザートでも食べる?」
 そう訊くと、少女は初めて屈託のない笑顔を見せた。まだまだ幼い子供だというのがわかる、素敵な笑顔だ。
「あたし、これが食べたい」
 僕は注文を済ませたあと、カフェの外に出て一服し、スマートフォンで専用サイトにアクセスしてホテルの予約をキャンセルした。終電にはぎりぎり間に合うだろう。雨もほとんどやんでいる。雲間からわずかに星が見えた。濡れた地面に、街頭の明かりが音なく反射していた。
 入り口の戸を開けると、ひっそりとした店内にチャイムの音が響いた。少女がこちらを見て肩をすくめるジェスチャをした。食べてもいい? 幾分挑戦的な笑顔がそう訊いていた。僕は今夜はじめて余裕のある笑みを作り、小さく頷いた。
 彼女の前には、夢を詰め込んだような四角いガトーショコラが、ちょこん、と置かれていた。

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