【掌編】淵源の記憶
澄んだ水がゆっくりと流れていく。小鳥たちの高い声が森の奥から聴こえる。時折吹くまだ涼しい北風が髪を揺らす。僕はじっと川を見下ろしたまま、もうすぐ一時間が経とうとしている。
森の景色は目から耳から、そして鼻から心の中へと入り込み、身体全体に染み出していく。人工的な雑音から隔たれた山の生活はもちろんそれだけ不便ではあるが、そうした思い通りには行かない諸々と頭を捻りながら対峙しているうちに、生物としての誇りをかすかに取り戻したような、自分の奥深くに眠っていた勇気が再び揺り起こされたような不思議な気持ちが浮かんでくる。
◇
気がつくと僕は丘の上にいた。黄緑色の草が風に揺れ、なだらかな丘全体が波打っているように見える。体を起こすと細かな草が頬から落ちた。白く霞んだ遠く向こうを歩き過ぎていく人がいる。大きな人。巨人だ。
僕は彼を知っていた。ずっと昔から、まだ生まれる前から。どうしてか涙が流れた。折れた銅剣が背中に突き刺さっている、あのときのままだ。彼の名を呼ぼうと叫んだ。強い風が吹く――
◇
目を覚ますと、僕はまだ川の側にいた。陽は大きく傾き、オレンジ色の光を木々の合間に注いでいる。風は南から、少しく生ぬるいものへと変化していた。僕は涙を拭って立ち上がる。
また春がやってくる。古い命が土に絶え、新しい息吹が風となって世界を満たす。
絶え間ない移ろいの中、忘れてはいけないもののあった気がするのに、僕はもう思い出すことができない。
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