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モッチー編集長の高松日記22〜菅原道真と讃岐〜

こんにちは。モッチー編集長こと望岡季世彦(もちおか・きよひこ)です。
このアカウントでは高松の好きなところ、高松経済新聞の取材を通して感じた高松の魅力をお伝えしていきます。

今回は表題にある菅原道真公と讃岐の関係について書いていきます。

菅原道真

886年、42歳の時に道真は8年務めた文章博士(大学寮で歴史と詩文を指導する役職)の任を解かれ、讃岐守に任じられました。
左遷と言うわけではなく、当時の官僚は、一時地方官として飛ばされ任期が終わってから京に呼び戻され、地方官としての成果をもとにして帰京後のポストが決まる、というのが通例だったそうですが、この出来事にかなり傷ついたそうで、その気持ちを漢詩にしたためています。


我将に南海の風煙に飽かむ
更に妬む 他人の左遷と道ふを
倩(つら)つら憶ふに分憂は祖業に非(あら)ず
徘徊す 孔聖廟の門前

(訳)私はこれから南海の素晴らしい風物をイヤというほど楽しむことになろう。
加えて忌々しいのは、他人がこれを左遷と呼ぶことだ。
じっくり考えると、わが菅家の家業は地方官ではない。
孔子廟の門の前をぶらぶら歩きながら、そう思うのだ。

讃岐に来たものの、京に置いてきた家族や門下が気にかかったようで、一旦京に戻ったのち、887年、再度讃岐へ。本格的に讃岐守の仕事をスタートさせます。
民衆の暮らしに触れ、その貧しさに心を寄せる詩なども残していますが、なかなか讃岐守としての功績はあげられなかったようで、任期4年目に次のような詩を残しています。

【苦日長(日の長きに苦しむ の意味)】
忽ち 忝くす 専城の任
空しく為に中路に泣く
吾が党、別るること三千
吾が齢(よわい) 五十に近し
政 厳にして人到らず
衙(つかさ)掩(おお)ひて 吏集まることなし
茅屋(ぼうおく)に独り眠りて居り
蕪庭(ぶてい)に閑(しずか)に嘯(うそぶ)ひて立つ
眠りに疲れ、また嘯くことも倦む
嘆息して鳴き悒(うれ)ふ
客となって四年来
官にあって一秩及ぶ
此の時最も患ふる所
烏兎(うと)駐(とどま)つて繋れしが如し
日長く 或は日短し
身騰(のぼ)り或は身繋がる
自然なり 一生の事
意を用(も)って相ひ襲(おそ)はず

(訳)あっという間に国司としての任期は終わりに近づいた。
私はこの任務のために道半ばにして泣いたのだ。
わが門弟は三千人が離れていった。
わが齢は五十に近い。
政治が厳しいので誰も寄り付かない。
役所はみすぼらしく、役人は集まらない。
私は茅葺き屋根の小屋で独り眠り、
蕪の生い茂る庭で静かに詩を口ずさんで立つ。
眠りに疲れ、また詩を口ずさむことにも飽きる。
ため息をついて嘆き憂う。
この地に客人となって四年。
役人となってからは十年経つ。
この時もっとも心配するのは、
時間の進行が止まって、縛り付けられたように思うことだ。
日は長く、あるいは日は短く、
わが身は舞い上がるかと思うと、あるいは地に縛り付けられる。
人の一生は天然自然のことだ。
賢い心で、逆らわないようにしよう。

讃岐では大きな功績をあげられなかった道真ですが、その後都に戻り、蔵人守、遣唐大使、そして右大臣と登りつめていきます。

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参考HP https://history.kaisetsuvoice.com/Michizane2.html  

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