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#3 なぜ日本橋が起点になったのか?(その2)

最初の起点は元芝

 東海道の起点といえば日本橋だが、日本橋が起点となったのは1604年(慶長9年)のこと。同年2月4日、徳川秀忠は家康の命を受け、東海道、東山道、北陸道に一里塚を整備させたという記事が「徳川実記」に記録されている。それ以前の東海道の起点は元芝だったという。金杉橋の南側の本芝一丁目(現在の芝四丁目)あたりと言われている。
 なぜ、元芝が東海道の起点だったのだろうか?

現在の元芝札の辻

 「別本慶長江戸図」を使って推論してみた。
 「別本慶長江戸図」は1602年(慶長9年)頃の江戸を描いた図とされる絵図だ。この絵図では、平川の流路変更はほぼ完成されているという。ただし、一石橋から東の区間は見当たらない。また、埋立完了前の日比谷入江も描かれている。日比谷入江は1603年(慶長8年)に埋立てられたと言われており、それ以前の東海道はまだ新橋あたりは陸地になる前だったことになる。
 そうすると、元芝は、日比谷入江を埋め立てるまでのつなぎの起点だったということかもしれない。

 日比谷入江の海岸線を北上すれば大手町あたりまで街道を伸ばすことが可能だったのではと考えられたが、1601年時点で江戸城拡張と日比谷入江の埋立は計画済であったとすれば、いずれ陸続きとなる東海道を「江戸本町」近くまで延長することを織り込み済であったということか?
 先を見据えて、陸地の最北端付近の元芝にしたというのが1601年時点の街道の起点の置き方として考えるべきなのかもしれない。

 最初の起点に関しては他にも、
 ・起点と本芝札ノ辻の位置関係
 ・起点に明確なランドマークとなるものが見えてこない
などの疑問があるが、追い追い究明したいと思う。 

なぜ日本橋が起点になったのか?

 東海道の東の起点は「日本橋」となったが、なぜ、橋を起点としたのだろうか?
考えられる条件として以下の2点を考えてみた。
①  地域を代表するランドマークとなる構造物
②  町場の玄関口としてのシンボル

 日本橋を東海道の起点としたのは1604年(慶長9年)と言われている。徳川家康が入府した1590年(天正20年)以降、江戸では、江戸城と家康の隠居城としての新城(現在の西の丸)の構築、日比谷入江埋め立て、平川流路変更にともなう日本橋川開削などが順次行われている。日本橋川架橋は1603年(慶長8年)と言われており、架橋1年の橋が「地域を代表するランドマーク」となったとは思えないので、この仮説は成り立たない。

 次に「町場の玄関口としてのシンボル」であるが、この仮説は江戸の最初の町場と考えられているのが「江戸本町」であることから、日本橋が上方から向かった場合に「江戸本町」の玄関口に位置することから考えてみた。
 江戸本町は、江戸城の常盤橋から浅草橋に通じる本町通り沿いの町で、幕府との繋がり深い商人に割り振られた場所だったこともあり、江戸を代表する町場につながる橋として「日本橋」を起点としたという仮説だった。しかし、この仮説は「中山道」の起点としての「日本橋」では成り立たない。中山道を場合、「日本橋」は「江戸本町」を通過した位置にあるからだ。そうすると「町場の玄関口としてのシンボル」という仮説も成り立たない。
 しいて言えば、江戸の中心となる町場に最も近い東海道上の橋ということにはなる。

現在の本町通り

江戸のランドマーク

 改めて、「日本橋」が東海道の起点になった時点のことを確認すると、1604年(慶長9年)2月4日、徳川秀忠は家康の命を受け、東海道、東山道、北陸道に一里塚を整備させたという記事が「徳川実記」に記録されている。1826年(文政9年)~1829年(文政12年)に掛けて編纂された江戸幕府の地誌書「御府内備考」には、「この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありといふ」という記載が残っている。あくまでも後年の記載であり、1604年当時の城下のことを反映しているとは思えない記述である。ただし、幕府が日本橋を起点に、一里塚などの街道整備を行おうとしたことはうかがえる。

 「日本橋」は、初期の江戸の中心となる江戸本町と江戸城をつなぐ「常盤橋」の近くに位置することから、江戸城下の中心に位置する構造物となったことは確かだ。
 江戸を基準にして南に向かう東海道と北に向かう中山道の街道整備を進めるにあたって、一里塚の整備の基準となる構造物を考えた結果「日本橋」を起点としたということなのかなと思う。

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