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#4 なぜ日本橋が起点になったのか?(その3)

いつ架橋されたのか?

 日本橋の架橋時期については、実は公式な記録が残ってなく、はっきりとしたことは分かっていないが、日本橋が最初に架けられたのは1603年(慶長8年)だとする説が一般的だ。

 翌年の1604年(慶長9年)、幕府が日本橋を起点にして各街道に一里塚を築かせたことに関して、三浦浄心が寛永年間(1624年~1644年)後期に執筆した「見聞集」で以下を記載している。
「当君の御時代に、一里塚をつくべきよし仰出されたり。されば日本橋は慶長八癸卯の年江戸町わりの時節、新敷出来たる橋なり」
この記載が根拠となっている。
 「見聞集」は、寛永年間の終り頃、おおよそ1635年以降に書かれたものとみなされており、浄心が70代で書いたことになる。約30年以上前の出来事の正確性には若干の留意が必要かもしれないが、この時代に生きた人が書いた記録であることは確かだ。

 日本橋の架橋時期を探る別の観点としては、平川の流路変更時期が挙げられる。平川はもともと日比谷入江に流れ出ていたが流路変更により、日本橋川が開削された。
 1602年(慶長7年)頃の江戸の町並みを記したものと言われている「別本慶長江戸図」には、平川が流路変更されていることは描かれている。

 ただし、現在に伝わる「別本慶長江戸図」は1845年(弘化2年)に写図された図であり、写した元の絵図は下部が焼失しており、その部分は朱書きで「焼失シテ不分」とある。一石橋以東の日本橋川と日本橋については未記載のように見えるが良くわからない。
 1604年の時点では存在し、東海道と中山道の起点になったことから1603年に架橋された橋ということで正しいのだと思う。

現代の日本橋川

なぜ日本橋というのか?

 それでは、なぜ、日本橋というのだろう?
 日本橋の名前の由来は諸説あるが、主な説としては以下が挙げられる。

① 江戸の中心地で諸国への行程もここから定められたから日本橋と命名
② 江戸で最初の橋だったので自然と日本橋と言いだした
③ 当初は二本の木を渡しただけの粗末な橋だったことから二本橋が転じた④ 東の海から朝日が昇るのを望めることに由来
⑤ 日本国中の人足(労働者)が集まって橋が架けられたことに由来

 江戸幕府の地誌書「御府内備考」には、「この橋、江戸の中央にして、諸国の行程もここより定められるゆえ、日本橋の名ありといふ」という記載が残っている。①である。
 ただし、「御府内備考」について注意が必要なのは、編纂時期が200年あまり後の1826年(文政9年)~1829年(文政12年)に掛けて書かれた記録であること。既に大都市江戸が成立した後に書かれた記述であることから、どこまで事実ととらえてよいのか良くわからない。

 それから②③に関しては、別本慶長江戸図には既に別の橋は描かれているので、1603年に架橋された日本橋が②の「江戸で最初の橋」というのは成り立たないし、③の「当初は二本の木を渡しただけの粗末な橋」というのも、街道の起点とする橋を粗末な造りにするとは考え難い。
 ④の「東の海から朝日が昇るのを望めることに由来」については、出典を資料が見つけられていないので判断がつかない。

 ⑤に関しては、先述の三浦浄心の「見聞集」に、
「されば先年、江戸大普請の時分、日本国の人集まりてかけたる橋あり、これを日本橋と名付たり。されば、日本橋は慶長八、己卯の年、江戸町割の時節新しくできたる橋なり。この橋の名を人間かつてもって名付けず、天よりや降りけん、地よりや出でけん、諸人一同に日本橋と呼びぬること、奇態の不思議と沙汰せり」
との記載があり、おそらくこれが基になっているではと思う。
 先述のとおり「見聞集」は寛永後期に書かれたと見られる書物であり、1565年(永禄8年)生まれの浄心にとって、日本橋架橋は39歳頃の出来事である。以降「見聞集」を執筆するまでの間に自然と日本橋と呼ばれるようになったことを感じさせる。

 家康が征夷大将軍になったのは、1603年(慶長8年)2月12日のこと。ここから全国の大名を動員した慶長期天下普請が始まっている。
 日本橋川の開削と日本橋架橋はこの慶長期天下普請の最初に行われたのではないかと考えている。

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