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#5 なぜ日本橋が起点になったのか?(その4)

なぜ一里塚を作ったのか?

 一里塚の期限は古代中国にあるというが、日本では平安時代末期頃に奥州藤原氏が白河の関~陸奥湾までの間に里程標を立てたのが最初と言われている。戦国時代では、織田信長や豊臣秀吉が立てた塚があるという。

 徳川幕府の一里塚の整備は、1604年(慶長9年)、家康が二代将軍秀忠に命じ、日本橋を起点として、東海・東山・北陸の3街道に1里(3,927km)ごとに5間(約9m)四方の塚を築かせ、塚の上には、榎や松、欅を植え、旅行者に便宜を与えたという。

 榎、松、欅などが選ばれたのは、根を深く張って広がり塚を固めるからだという。木が育った塚では、旅人が木陰で休憩することも出来た。
 東海道と中山道の一里塚の整備が完了したのは、8年後の16012年(慶長17年)だったという。

 江戸時代に用いられた距離表現(里・町・間)をメートル(m)で表すと、 1里は3,927.2688mとなる。しかし、これは江戸時代中期以降の話で、一間が六尺(1.818m)になってからの話である。
 江戸時代初期の一間はいわゆる京間の六尺五寸(1.9695m)となっており、一間あたり15.2cmの差があることになる。

 江戸時代初期の江戸町割は京間で行われたとの研究があり、最近の東海道一里塚の研究でも、一里塚が整備された江戸時代初期の一間は六尺五寸で設定されて可能性が高いという研究結果が出ている。
 18世紀以降の東海道の総距離が126里6町1間であるのに対し、1682年(天和2年)以前の状態を示す「東海道絵図」では江戸・京都間を120里としており、この差が何かという議論から導き出された結論である。

 一間=六尺五寸の場合の一里は、4.254kmとなり、こちらの方が実際の塚間の距離に近いということのようだ。
 里・町・間は、1里=36町=2160間(60間×36)の関係にあるので、これをそれぞれのメートルで表すと以下のようになる(※一町は60間)。

 一間=1.9695m
 一町=118.17m(1.9695×60)
 一里=4254.12m(118.17×36=1.9695×2160)
 ちなみに、一坪=一平方間だ。
 この 江戸時代の1里は半刻(約1時間)に歩ける距離だったという。

 一里塚の整備の実務は、東海道と東山道は永井白元、本多光重、北陸道は山本重蔵、米田正勝が奉行となり、江戸町年寄の樽屋藤左衛門と奈良屋市右衛門らがこれに属し、工事の総監督は大久保長安が担当したという。

 なぜ、一里塚が築かれたのかという主な理由は次の2点が挙げられる。
 ①行程目安
 ②運賃目安

(行程目安)
 旅人がどれくらいの行程を歩いたのかを把握するための目安となるものとして設置。また一里塚と一里塚の間に庶民が休憩できる「立場(たてば)」と呼ばれる茶屋や売店などの休憩施設が開かれていることも多く、次の立場までどれくらいで着くかを把握するという点もあったという。

(運賃目安)
 幕府は公用以外の輸送について、御常賃銭と呼ばれた公定料金により運搬する権利を宿駅に保障していた。宿場の問屋場から荷物の運搬ができ、一里塚は運賃設定の目安にも利用されていたようだ。
 ただし、江戸時代の一里塚は必ずしも等間隔ではなく、1里からズレて築かれたものもあったようだ。

日本橋から9番目の品濃一里塚(東戸塚)

家康の成そうとしたこと

 日本橋が東海道の起点となったことを、改めて振り返ると、
 ①関東移封となり関東の領主として居城と城下街を整備した1590年代
 ②関ヶ原で勝利し、征夷大将軍として天下普請を号令した1603年以降
で状況が大きく変わっている。
 1601年から始める街道整備、1604年からの一里塚整備も徳川の世を形作るアプローチの一つと言えるのではないか。
 特に、1603年に家康が征夷大将軍になったことで、盤石とまでは言えないが覇権を握りつつあることを世に知らしめるため、大名を動員して慶長期天下普請に着手するとともに、街道を整備して江戸に人、物、金が集まる仕組み作りに着手したのではないかと思う。
 その中で、日本橋は街道の起点であり基準であり、覇権のシンボルを担ったのだと言えるのではないか。

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