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#2 なぜ日本橋が起点になったのか?(その1)

家康が入府した頃の江戸

 銀座や日本橋を通る中央通りは、東京を代表する商業地を通る道路だ。港区新橋一丁目の新橋交差点を起点として、終点は台東区上野六丁目の上野駅交差点までの経路となっている。
 江戸時代、この中央通りの日本橋から南は東海道、日本橋から北の須田町交差点の手前までは中山道だった。この区間は江戸時代も東海道と中山道という基幹道路だったわけで、特に日本橋周辺はメインの商業地だった。
 しかし、最初から江戸のメインストリートだったかというと違ったようだ。

 家康が入府した頃の江戸は街道としての東海道はまだ存在せず、新橋から浜松町にかけては日比谷入江に入り込む遠浅の海だった。日本橋川も平川の流路変更前で存在せず、当然、日本橋も架橋前だった。それでは、この1590年(天正18年)頃の街道はどうなっていたのだろうか。

 古代からあると言われる鎌倉街道の下ツ道(しもつみち)は、奥州に向かう道として昔から利用されてきた街道であり、鎌倉幕府も整備した道と言われる。この下ツ道は、中原街道から大井、品川、芝と東京湾沿いに北上し、大手町あたりから浅草に抜けて松戸、柏を通り、奥州方面に向かう道だった。
 中世の頃は、現在の大手町付近から浅草方面へは南や東が海岸に近く、北側も平川が流れ込み広く湿地や沼地だったことから、その間にあったわずかな微高地に道を通したという。

 家康が入府した頃も街道筋に江戸宿もしくは江戸湊と呼ばれる集落はあったようだが、入府から13年あまりの期間に最初の町割りが行われ、江戸最初の町と言われる本町(現在の日本橋本町)が出現している。この本町には幕府との繋がり深い商人に割り振られた場所であり、金座や奈良屋市右衛門、樽屋藤右衛門、喜多村彦右衛門といった町年寄の屋敷もこの本町に沿って配置された。江戸の中心となる町人地であったことは確かだ。

現代の常盤橋

本町通りと日本橋通り

 本町を通る常盤橋から浅草橋までの「本町通り」はこの下ツ道上にあったと考えられ、南北を走る「日本橋通り」とは室町三丁目南交差点で直交する位置関係にある。この東西に走る通りはもともと奥州に抜ける道であったことから、江戸城の整備・拡張とともに、城の常盤橋門から日光街道、奥州街道、水戸街道につながる道になった。伝馬制度を支えた大伝馬町もこの本町通り沿いに置かれた。17世紀前半までの江戸のメインスリートは「本町通り」だった。
 玉井哲雄氏の「江戸 失われた都市空間を読む」でも「日本橋通りと本町通りが交差する部分の町屋敷の表方向」は、「角の町屋敷はあきらかに本町通りに表を向けている」とのことで、江戸の最初の町割りが行われた1590年代は本町通りが主要街路だったと考えられるいう。
 一方で、江戸城の整備・拡張により下ツ道が走る大手町近辺は江戸城内となり、京に向かう街道は江戸城外の東海道に変更となった。

 玉井氏の先述の著書では、「天正期にすでに町割が行われた可能性のある日本橋北も、日本橋から筋違橋にまっすぐに伸びる日本橋の部分が最も整っていることからみて、慶長期にあらためて町割が行われたとみて、間違いないだろう」と述べている。

 江戸の発展と東海道・中山道の交通量の増加により、江戸時代中期以降、江戸のメインストリートは南北に走る「日本橋通り」に移り変わっていくことになるが、その基盤は、日本橋架橋、日本橋通りの再町割、東海道・中山道の整備という軽長期の基盤整備にある。これらの基盤整備も慶長3年に始まる慶長期天下普請の一環なのではと考えている。
 この慶長期の都市基盤造りが全国の覇者になろうとする徳川氏の権力の誇示を象徴する一大事業と言えるのではないか。

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