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青史探究

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街道と関連する都市にまつわるコラムを集めました。週二回の掲載を予定しています。
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#東海道

#33 富士川と蒲原宿

富士川の渡しと間宿岩淵 南アルプスや八ヶ岳などの信濃国と甲斐国の山々から駿河国を通り駿河湾に流れ出る富士川は、水と共に大量の土砂を下流へ運び、河口部の流域では川底が浅くなって川幅が広がり、古くから急流の大河として知られていたそうだ。 富士川右岸に位置する岩淵には富士川渡河の渡船場があり、東海道の街道筋には名物の「栗ノ粉餅」を売る茶店が建ち並んでいたそうだ。 富士川を渡河する東海道には江戸時代を通して橋は架けられず、渡船により旅人を往来させていた。 江戸末期の1845年(弘

#28 なぜ箱根は宿場設置が遅れたのか?

街道付け替え 江戸時代以前の中世の東海道では、箱根山を越えるルートは現在の箱根八里ではなく、「湯坂路(ゆさかじ)」と呼ばれる尾根伝いの道が使われていたそうだ。 このルートで京から東国に下る場合、箱根峠を越え芦ノ湖を経て、鷹巣山、浅間山、湯坂山の尾根を伝って箱根湯本へ下る山越えのコースだったそうだ。 江戸時代の東海道の道筋は尾根筋から谷筋に経路が変更され、東南側の須雲川の谷間に新しい東海道を築かれた。 箱根路のルート設定の意味合いについては、険しい箱根山を江戸防衛の要として

#27 江戸時代の小田原宿

江戸時代の小田原  江戸時代になると小田原は、譜代大名の大久保氏、阿部氏、稲葉氏などが治める小田原藩の城下町として栄えた。  小田原宿は、東海道五十三次の9番目の宿場として、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として設置された。日本橋を出立した人の多くが2泊目の宿として利用した宿場でもある。  理由は、天下の剣「箱根山」を越えるためには、小田原で泊まらざるを得なかったのである。また江戸からの距離も20里27町(81.5km)あり、1

#24 馬入渡しと平塚宿

牡丹餅立場と七里役所 藤沢宿と平塚宿の間には「立場(たてば)」と呼ばれる「茶屋」や「売店」などの休憩施設が4つあったそうだ。 その中の一つの牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)は藤沢宿から一里半(約5.9km)の距離にあった立場。牡丹餅が名物だったとか。 宿場から1時間半あまり歩いたところで海を眺めながら一休みするにはちょうど良い位置にあったのだろう。 牡丹餅立場には、紀伊藩の七里役所もあったらしい。 七里役所とは江戸時代の大名が設置した飛脚の一つで、七里飛脚の継立場の役所のこと。

#23 藤沢宿と南湖の茶屋町

門前町だった藤沢宿  東海道五十三次の6番目の宿場である藤沢宿は、東海道整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄えた町だった。  八王子道、鎌倉道などの街道との分岐点に位置し、1555年(弘治元年)に小田原北条氏が藤沢大鋸町に伝馬が置が置かれるなど中世から交通上の要衝だったが、1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として整備された。  宿場は境川東岸の鎌倉郡大鋸町と同西岸の高座郡の大久保町、坂戸町の3町で構成されており、宿場の範

#22 戸塚宿と立場

相模国東端の宿場町、戸塚  東海道五十三次の5番目の宿場である戸塚宿は、相模国鎌倉郡(現在の横浜市戸塚区)に置かれた宿場町で、東海道の中では相模国東端の宿場町だ。  1601年(慶長6年)東海道に宿駅伝馬制度が始められた際に戸塚宿は宿場町として指定されていなかったが、保土ヶ谷~藤沢間の距離が4里9町(約17.2km)と長かったため、慶長9年(1604)に戸塚宿が正式な宿場として認められた。  日本橋から10里半(41.2km)の距離にあり、保土ヶ谷宿からは2里9町(8.8

#21 なぜ保土ヶ谷宿は宿場移転したのか?

 歌川広重の東海道五十三次の浮世絵「保土ヶ谷 新町橋」では、帷子(かたびら)川に架かる帷子橋(新町橋)が描かれている。  新町橋を渡ると、保土ヶ谷宿が始まる。 袖ヶ浦と帷子河岸  江戸時代始めまでは、袖ヶ浦と呼ばれた入江が現在の横浜市保土ケ谷区東端部まで湾入しており、東海道沿いの海岸の中でも最も美しい風景の一つとされていた。  天王町のあたりが帷子川の河口で「帷子町河岸」と呼ばれた荷揚げ場へと帆掛け船が出入りする風景があったという。  帷子河岸では、帷子川流域から集められ

#20 袖ケ浦と神奈川宿

 海沿いの街道に軒を並べる茶屋や料理屋。  袖ヶ浦の海には帆船が何艘も漂い、舟運が盛んな様子が描かれている。歌川広重の東海道五拾三次の浮世絵「神奈川 台ノ景」では、台町から眺める袖ケ浦の景観と湊町の側面を併せ持つ神奈川宿が巧みに描かれている。 神奈川湊  神奈川湊は中世から東京湾内海交通の拠点の一つとされ、鎌倉幕府が置かれた13世紀以降、湾内の物流が活発になると共に神奈川湊も発展したとされている。  神奈川湊が記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことだ。

#19 なぜ川崎宿が宿場になったのか?

宿場設置の経緯  2023年は川崎宿起立から400年にあたり、旧川崎宿の通りには、400年を祝う旗が設置されている。  東海道五十三次の2番目の宿場である川崎宿は、東海道の宿駅制開始から遅れること22年、1623年(元和9年)、武蔵国橘樹郡川崎領(現在の神奈川県川崎市川崎区)に設置された。  品川宿・神奈川宿間の伝馬継立は往復十里(約39km)と長く、両宿の伝馬百姓の負担が過重のため、両宿が幕府に請願して両宿の中間に位置する多摩川の右岸「川崎」に設置されたという。  つま

#17 なぜ品川が宿場町として栄えたのか?

品川と品川湊  品川は目黒川の河口付近に出来た湊町で、平安時代末期の文献に登場する。武蔵国国府と品川とは品川道と呼ばれる武蔵国南部の古道が通っていた。品川湊は、武蔵国国府の外港だったという説もある。  品川湊のあった湾は遠浅で、品川湊の沖合い(現在の東京港品川埠頭から天王洲に掛けての一帯)には、江戸に物資を運んできた大型廻船が停泊し、瀬取船などの小型廻船と荷物の積み替えが行われる場所だった。  品川沖で江戸向けの積み替えが行われた理由は、品川以北の江戸湾は浅瀬が広がって

#9 なぜ西の起点を高麗橋まで伸ばしたのか?(その1)

街道延長の意図は?  東海道の整備を開始した1601年(慶長6年)時点の西の起点は三条大橋だったが、1619年(元和5年)になると江戸幕府は街道を大坂まで延長し、起点を高麗橋に置いている。  時代背景で言えば、1619年は大坂夏の陣から4年経ち、江戸幕府が大坂を幕府直轄地として支配を開始し、大坂城代及び大坂町奉行を設置した年である。  東海道を大坂まで延長した際に追加された宿場は、伏見、淀、枚方、守口の四宿だ。山科追分で分岐して大坂に向かうルートになる。  この東海道延長

#1 なぜ家康は東海道を整備したのか

街道整備の目的とは  徳川家康が江戸に入府したのは1590年(天正18年)のこと。それから11年後の1601年(慶長6年)正月、家康は東海道の整備を命じ、宿駅伝馬制の整備がはじまった。東海道筋の宿場町には「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」を交付されたが、街道整備の目的は何だったのだろうか?  目的として考えられるのは、やはり、 ①東日本と西日本の二元統制のための情報通信網の整備 ②領国経営のための物流網整備 の2点があったと思う。  1600年(慶長5年)9月の関ヶ原の戦