見出し画像

#20 袖ケ浦と神奈川宿

 海沿いの街道に軒を並べる茶屋や料理屋。
 袖ヶ浦の海には帆船が何艘も漂い、舟運が盛んな様子が描かれている。歌川広重の東海道五拾三次の浮世絵「神奈川 台ノ景」では、台町から眺める袖ケ浦の景観と湊町の側面を併せ持つ神奈川宿が巧みに描かれている。

神奈川湊

 神奈川湊は中世から東京湾内海交通の拠点の一つとされ、鎌倉幕府が置かれた13世紀以降、湾内の物流が活発になると共に神奈川湊も発展したとされている。

 神奈川湊が記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことだ。 神奈川湊とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領上杉氏の領地となった。 記録によれば室町時代の1392年(明徳3年)の段階で、東京湾の主要積出港の一つとして機能していたことが明らかになっているという。

 江戸時代に東海道が整備され、1601年(慶長6年)に神奈川へ宿場が置かれると、神奈川宿と神奈川湊は、幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。
 神奈川湊は諸国の廻船が出入りして物産の商いが盛んに行われていた湊だったが、廻船が直接接岸するのではなく、袖ヶ浦(現在の横浜駅付近)を船舶の停泊地として艀船に荷物を載せ替えて積み下ろしを行う方式だった。

 神奈川湊の河岸としては、神奈川宿青木町の「宮ノ下河岸」と保土ヶ谷宿の「帷子町河岸」があった。
 青木町の宮ノ下河岸では、愛知県知多半島を拠点とした「尾州廻船」が度々神奈川湊に入港し、青木町の廻船問屋と取引を行っていたことが近年の研究で明らかになってきている。

神奈川台関門跡の石碑

神奈川宿

 神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町だ。
 東海道五十三次の3番目の宿場である神奈川宿は、1601年(慶長6年)、神奈川湊近くの東海道沿いの武蔵国橘樹郡神奈川領に設置されたが、1596年時点で既に宿場として存在していた町場だ。

 日本橋から7里(27.5Km)の距離にあり、江戸よりの川崎宿まで2里18町(9.8Km)、保土ケ谷宿まで1里9町(4.9km)に位置していた。
 江戸見附は長延寺跡(神奈川通東公園)に置かれたとされる。街道の両脇には高さ2.5メートルの土居が築かれ、その上に75cmの竹矢来(たけやらい)を巡らせていたという。
 上方見附は、西区南軽井沢の西口ランプ入口交差点近くにあったようだ。
 宿場の長さは約4kmあったとされる。

 滝の川を境に川崎寄りの神奈川町と保土ヶ谷寄りの青木町という二つの町で構成され、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、宿内の総家数は1,341戸、人口5,793人(男2,944人、女2,849人)、本陣2軒(神奈川町の石井本陣、青木町の鈴木本陣)、旅籠数58軒の規模があり、問屋場は神奈川町の仲之町にあった。

 神奈川町と青木町はそれぞれ更に町が分かれており、神奈川町は、江戸見附から順に並木町、新町、荒宿町、十番町、九番町、仲之町、西之町と続き、滝野川を渡ってからの青木町は、滝之町、久保町、宮之町、元町、七間町、下台町、上台町、軽井沢と続いた。

 宿場は東海道沿いから内陸や海辺沿いにも伸び、十番町からは内陸に仲木戸横町が延び、仲之町から海辺沿いに小伝馬町、猟師町、内陸には飯田町、御殿町、二ツ谷町が伸びていた。
 また、枝郷として神奈川町には斎藤分が、青木町いんは三ツ沢があった。

 神奈川宿の名物としては、黒薬、生魚、亀の甲煎餅などがあった。
 亀の甲煎餅は、小麦粉と水、砂糖などで作った亀の甲羅を模った甘い煎餅だったいう。
 製造していたのは青木町にあった「若菜屋」で、創業した享保年間(1716年~1736年)頃から販売されていたという。1830年代から江戸を中心に評判を呼び、「大名から庶民まで広く愛された」ということだが、若菜屋は1943年に廃業し、現在は途絶えている。

台町

 青木町の西側に位置する台町は、海に面した崖を東海道が通り、海側の眺望が開け、それを目当てにした茶屋が建ち並び、茶屋街を形成していた。
 人気の理由は、この地が神奈川の内海「袖ケ浦」を一望できる景勝地だったからと言われている。
街道沿いに軒を連ねた茶屋は、旅人たちにとっての絶好の休憩地だったようだ。
 歌川広重の浮世絵や十返舎一九の1802年(享和2年)刊行の「東海道中膝栗毛」でも、景勝地としての台町の眺めが記されている。
 現在は、内海は埋め立てられ陸地が広がっており、当時を偲ぶものはない。

東海道五十三次 神奈川 台之景

神奈川御殿

神奈川御殿は、江戸時代初期の1622年(元和8年)に、神奈川宿の街道筋(現在の横浜市神奈川区神奈川本町)におかれた徳川将軍家の宿泊施設(御殿御茶屋)。
 将軍の鷹狩や宿泊に利用されたという。
 寛永年間(1624年~1644年)に徳川秀忠、徳川家光が立ち寄ったとされるが、1655年(明暦元年)に破却されたという。
 破却理由は分かっていない。

おりょうゆかりの料亭「田中家」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?