見出し画像

#19 なぜ川崎宿が宿場になったのか?

宿場設置の経緯

 2023年は川崎宿起立から400年にあたり、旧川崎宿の通りには、400年を祝う旗が設置されている。
 東海道五十三次の2番目の宿場である川崎宿は、東海道の宿駅制開始から遅れること22年、1623年(元和9年)、武蔵国橘樹郡川崎領(現在の神奈川県川崎市川崎区)に設置された。

 品川宿・神奈川宿間の伝馬継立は往復十里(約39km)と長く、両宿の伝馬百姓の負担が過重のため、両宿が幕府に請願して両宿の中間に位置する多摩川の右岸「川崎」に設置されたという。
 つまり、伝馬の負担軽減のために新しく設置された宿と言える。
 ちなみに、川崎宿から品川宿と神奈川宿までの距離は、どちらも2里18町(9.8km)の距離にある。

 川崎宿は、新宿、砂子の2町で始まり、その後、久根崎、小土呂を加えた4町で構成されるようになり、江戸口土居(現在の六郷橋)から京口土居(現在の小川町)までの約1.5kmの距離があった。
 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、宿内の総家数は541戸で宿内人口は2,433人(男1,080人、女1,353人)とある。

 本陣は田中本陣、佐藤本陣、惣兵衛本陣の3軒があった(ただし、惣兵衛本陣は江戸後期に廃業)。また、旅籠はピーク時72軒あり、そのうち飯盛女を置いていた「飯売旅籠」は33軒、置いていない「平旅籠」が39軒あった。
 当時、飯盛女は旅籠1軒あたり2人までということとなっていたが、他の宿場と同様に実態としてはほとんど守られておらず、また取り締まりが必要なほど服装も華美になっていったそうだ。
 そのため、平旅籠と飯売り旅籠の間にはしばしば紛争が起きたという。

万年屋と奈良茶飯

 川崎宿で名高い旅籠だったのが「万年屋」で、文久3年の「将軍上洛に付宿並書上」よると、当時川崎宿の旅籠の中で最大の規模だったという。初代駐日領事タウンゼント・ハリスが宿泊したことでも有名。
 万年屋の名物「奈良茶飯(ならちゃめし)」は『東海道中膝栗毛』の中で弥次さん喜多さんも食べたとされている。
 この万年屋は東海道から川崎大師への分岐点にあったという地の利もあって隆盛を誇ったが、1882年(明治15年)に第一京浜の工事のため姿を消した。

 川崎宿は設置後、伝馬を務める農民の負担ばかりでなく、問屋場が破産に追い込まれるなどの窮状に陥り、1632年(寛永9年)には、宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態となっている。
 しかし、幕府は問屋場などへの支援を行ったものの廃止の願いを受け入れることはなく、さらには東海道の交通量増大に伴う伝馬の負担引き上げ、地震や富士山の噴火などもあって財政は困窮を極めたそうだ。

収益源となった六郷の渡し

 歌川広重の東海道五拾三次の浮世絵「川崎 六郷渡舟」では、東海道を旅する旅人を船で運んでいる姿が描かれている。
 多摩川河口の六郷川には、1600年、東海道の整備に伴い木橋が架けられたが1688年に流失し、渡船場として六郷の渡しが置かれた。

 川崎宿の名主であり本陣当主の田中休愚は川崎宿復興のために渡船の運営権を幕府に働きかけ、1709年、幕府は川崎宿に運営を許可するとともに、復興資金3500両と渡船御掟と船賃銭定の高札を出すようになった。
 この六郷の渡しの運営権が、川崎宿の重要な収益源のなった。

 船賃は1人10文、荷物1駄1文、乗掛荷物12文と定められた。
 1812年当時、渡船場には馬船8艘、歩行船6艘が常備され、交通量の多い場合には近郷から雇船が仕立てられたという。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?