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#18 なぜ街道沿いに刑場が置かれたのか?

見せしめの場

 江戸時代、江戸周辺には南に東海道沿いの鈴ヶ森刑場(東京都品川区南大井)、北に奥州街道・日光街道沿いの小塚原刑場(東京都荒川区南千住2丁目)、西に甲州街道沿いの大和田刑場(八王子市大和田町大和田橋南詰付近)があり、三大刑場といわれた。
 幕末には、中山道沿いに一時的に板橋刑場(北区滝野川のJR板橋駅北付近)が置かれ近藤勇などが処刑されたが、板橋刑場は新政府軍がたまたま処刑に使った場所で、正式な刑場ではなかったようだ。

 江戸時代の刑場は、江戸に入る人たち、特に17世紀中盤は浪人たちに警告を与える意味で街道筋に設置したと考えられている。
 罪人への仕置きを多くの民衆に見せることで抑止力を働かせようとしたためであり、人通りの多い場所に獄門台を置く必要があった。

家康入府前後の江戸の刑場

 徳川家康入府前の江戸は、後北条氏が統治する地域だった。
 この後北条氏の統治の時代、江戸時代に本町四丁目と呼ばれることになった位置に刑場があったと言われている。
 現在であれば、日本橋本町二丁目から三丁目にあたる位置で、江戸時代以降は町場の中心地にまった地域だ。
 本町四丁目よりさらに東の馬喰町あたりには初音の森と呼ばれる鎮守の森が有るなど、江戸時代以前は町外れで海岸近くの長閑な場所にあったのではないかと思われる。

 1590年(天正18年)、家康が駿府より江戸に入府すると、家康は本材木町五丁目(現在の中央区日本橋一丁目~三丁目あたり)と浅草鳥越橋(台東区鳥越)に刑場を設けたが、急激な町場の拡大により2刑場とも移転している。

 本材木町五丁目の刑場は1615年(慶長20年)に芝高輪刑場に移転し、手狭になったことから、さらに1651年(慶安4年)に鈴ヶ森刑場に移転したとされる。

 浅草鳥越橋刑場は、浅草聖天町の西方寺の門前に移転し、こちらも1651年(慶安4年)に小塚原刑場に移転したとされている。

 江戸の初期の刑場としては、他にも芝口札ノ辻が1624年(寛永元年)から1640年(寛永17年)に掛けてキリシタン信者の処刑の場所として使われたと伝えられている。

 ところで、1651年(慶安4年)と言えば、4月20日、家光が48歳で薨去し、家綱が11歳で第4代征夷大将軍に就任した年であり、「慶安の変」と呼ばれている兵学者・由比正雪の幕府転覆計画が発覚した年でもある。
 刑場の移転拡大には浪人対策も含まれていたとされている。

 この時期の為政者というと、若年の家綱を補佐する保科正之が挙げられるが、老中の松平信綱、阿部忠秋などが浪人対策を行ったような記載も見受けられる。
 このあたりは調査があまり出来ていないので、もう少し探ることとする。

江戸の三大刑場

 鈴ヶ森刑場は、1651年(慶安4年)、江戸の南の入口、東海道沿いの品川宿を南下した東京都品川区南大井に設置されていた刑場だ。
 間口が40間(74メートル)、奥行が9間(16.2メートル)あったとされ、1871年(明治4年)に閉鎖されるまでの220年間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われているが、はっきりした記録は残っていない。 
 最初の処刑者は、1651年(慶安4年)に勃発した慶安の変の首謀者のひとり丸橋忠弥の磔刑とされ、 1651年8月10日のことだったという。

 一方、小塚原刑場は、1651年(慶安4年)、江戸の北の入口、奥州街道、日光街道沿いの千住宿を南下した千住大橋南側の小塚原町に設置されていた刑場だ。
 小塚原の仕置場は間口60間(108m)、奥行30間余(54m)程で、磔刑・火刑・梟首(獄門)が執行されていたというが、それ以外にも牢死や行き倒れなどの埋葬地でもあったそうだ。
 小塚原刑場でも、創設から廃止された1873年(明治6年)7月までの間に合計で20万人以上の罪人の刑が執行されたとされている。

 大和田刑場は、江戸の西の入口、八王子の甲州街道沿いの大和田橋北詰付近の浅川河原に設置された刑場だ。
 大和田刑場は主に多摩地方の罪人を処刑していた場所とされている。
 浅川を渡った南には 八王子横山宿の入口があり、日本橋から11里を示す「竹の鼻一里塚」があった。
 かなり町場の近いところに刑場が置かれていたことになる。

 三か所の刑場で多くの処刑が行われた訳だが、気になる点は冤罪がどの程度あったのかということ。
 江戸時代においては「吟味詰り之口書」と呼ばれる自白調書をとることが取り調べにおける最重要目標とされていたそうだ。
 自白を得るためにしばしば拷問が用いられたと言われており、冤罪率がかなり高かったとの説もあるようだ。
 無念な思いを持ったまま亡くなった方々のことを思うと恐れを感じる。

現代の濱川橋

泪橋(なみだばし)

 泪橋は、荒川区と品川区の二ヶ所にあった橋名で、罪人にとってはこの世の見納めの場であり、家族や身内の者にとっては処刑される者との今生の別れの場であったと言われており、罪人と家族・身内が互いがこの橋の上で泪を流したことから、この名が付けられたと言われている。

 荒川区南千住にある泪橋は、小塚原刑場跡の南に流れる思川に架かっていた橋だ。現在、思川は全て暗渠になっているため橋の面影はなく、交差点やバス亭に泪橋という名前が残っているのみだ。
 一方、品川区南大井にあった泪橋は、鈴ヶ森刑場跡の北に流れている立会川に架かっていた橋で、現在の橋の名称は「濱川橋」となっている。

現代の濱川橋

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