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#21 なぜ保土ヶ谷宿は宿場移転したのか?

 歌川広重の東海道五十三次の浮世絵「保土ヶ谷 新町橋」では、帷子(かたびら)川に架かる帷子橋(新町橋)が描かれている。
 新町橋を渡ると、保土ヶ谷宿が始まる。

袖ヶ浦と帷子河岸

 江戸時代始めまでは、袖ヶ浦と呼ばれた入江が現在の横浜市保土ケ谷区東端部まで湾入しており、東海道沿いの海岸の中でも最も美しい風景の一つとされていた。
 天王町のあたりが帷子川の河口で「帷子町河岸」と呼ばれた荷揚げ場へと帆掛け船が出入りする風景があったという。
 帷子河岸では、帷子川流域から集められた薪や炭を江戸に、また相州小麦を野田の醤油屋に原料として運んでおり、神奈川宿の神奈川町、青木町とともに神奈川湊の荷揚げ場として大いに栄えたそうだ。

 ただし、1707年(宝永4年)の宝永大地震後の富士山噴火にともなう降灰が帷子川に流入した結果、河床が浅くなり河岸としての適性が劣化してしまい、帷子町河岸の河岸としての賑わいは東隣の芝生村(現浅間町)に移っていったそうだ。

歌川広重「東海道五十三次 保土ヶ谷 新町橋」  

保土ヶ谷宿

 東海道五十三次の4番目の宿場である保土ヶ谷宿は、武蔵国橘樹郡程ヶ谷に置かれた宿場町で、1601年(慶長6年)東海道に宿駅伝馬制度が始められた際に伝馬宿として指定された。
 日本橋から8里9町(32.4km)の距離にあり、神奈川宿からは1里9町(4.9km)に位置している。
 当初、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿だったが、保土ヶ谷~藤沢間は4里9町(約17.2km)と距離があり、両宿の負担は大きかったことから、1604年(慶長9年)に戸塚宿が正式な宿場として認められ、保土ヶ谷~戸塚間は2里9町(約8.8km)となった。

 街道は、幕府によってすべての管轄が定められていて、保土ケ谷宿の管轄は芝生追分(現在の西区との境)から境木地蔵(現在の戸塚区との境)までの約5kmで、追分から北は神奈川宿、境木地蔵から南は戸塚宿の管轄となっていた。
 なお、境木は武蔵国と相模国の国境でもあった。

 保土ヶ谷宿は、程ヶ谷町、岩間町、神戸町、帷子町の四町で構成され、宿場の両端に設置された江戸見付(相鉄線天王町付近)から上方見付(外川神社付近)までの距離は19町(2Km)あった。
 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、宿内の総家数は558戸、人口2,928人(男1,374人、女1,554人)、本陣1軒(苅部家)、脇本陣3軒(藤屋、水屋、大金子屋)、旅籠数67軒(大7軒、中24軒、小36軒)の規模で、問屋場は一軒だった。

 この当時、女性は年齢にもよるが6里から8里(約23~31キロメートル)を歩いたとされ、保土ヶ谷宿は、次の戸塚宿とともに江戸から西へ向かう旅人の最初の宿泊地となることが多かったようだ。 

街道付け替えと宿場移転

 東海道は1648年(慶安元年)頃、境木から尾根道となる権太坂を通るルートに変更されている。変更前のルートについては諸説あるようだ。
 変更後のルートが、今の相鉄線の天王町駅前から国道1号に出る道だ。

 江戸初期の東海道は、芝生追分(宮田町1丁目)から「旧古町橋跡」を通り神明社(相州街道の分岐点)あたりまでの道筋は判明しているとのことだが、そこから境木までの道筋には諸説があるとのこと。
 旧古町橋は江戸時代初期の帷子川の橋だった。

 東海道の宿場設置された1601年時点の保土ヶ谷宿は、保土ヶ谷町と神戸(ごうど)町の二町による宿として成立した。
 当時の保土ヶ谷町は、権太坂の下に位置する元町(保土ケ谷3丁目の旧元町橋)にあり、一方、神戸町は現在の天王町駅付近にあり、二町は約2km(18町)離れており、事実上2つの宿場があるようなものだった。

 慶安年間(1648年~1652年)、徳川幕府は新町橋とも云われていた帷子橋
を通る新道を開通させ、同時に保土ヶ谷宿の整備のため、元町橋にいた苅部家等の住民を保土ヶ谷町に移住させるとともに、南側の岩間町住民をも移住させ、神戸、岩間、帷子および保土ヶ谷町が一体となった保土ヶ谷宿を成立させた。
  帷子橋は、保土ヶ谷宿の東の入口である江戸見附、東海道が帷子川を渡る地点に架けられていた橋で、橋の長さは15間(27m)の大きさがあった橋で、歌川広重の東海道五十三次にも保土ヶ谷「新町橋」として描かれた保土ヶ谷を代表する橋だった。

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