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#22 戸塚宿と立場

相模国東端の宿場町、戸塚

 東海道五十三次の5番目の宿場である戸塚宿は、相模国鎌倉郡(現在の横浜市戸塚区)に置かれた宿場町で、東海道の中では相模国東端の宿場町だ。
 1601年(慶長6年)東海道に宿駅伝馬制度が始められた際に戸塚宿は宿場町として指定されていなかったが、保土ヶ谷~藤沢間の距離が4里9町(約17.2km)と長かったため、慶長9年(1604)に戸塚宿が正式な宿場として認められた。

 日本橋から10里半(41.2km)の距離にあり、保土ヶ谷宿からは2里9町(8.8km)、藤沢宿まで2里(7.9Km)に位置した。
 朝、日本橋を発った旅人の一泊目の宿泊地としては最適な位置にあり、多くの旅人が宿泊する町だった。

 戸塚宿が宿場として指定されるにあたっては、客を奪われることを恐れた藤沢宿から猛反対があったそうだが、反対を押し切っての宿場設置は日本橋からの位置関係と保土ヶ谷・藤沢間の距離の長さが大きく影響していたのだろう。

 戸塚宿は、吉田町、矢部町、戸塚町の三町で構成され、宿場の両端に設置された江戸見附(吉田町イオン前)から上方見附(戸塚町大坂下)までの距離は21町(2.3km)あった。
 また、戸塚は大山道、鎌倉街道、厚木街道が交差する交通の要衝でもあった。

 天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によると、宿内の総家数は613戸、人口2,906人(男1,397人、女1,509人)、本陣2軒(澤邉、内田)、脇本陣3軒、旅籠数75軒の規模があり、問屋場は吉田町、矢部町、戸塚町にそれぞれあった。

歌川広重「東海道五十三次 戸塚 元町別道」

尾根伝いの坂道と立場茶屋

 戸塚宿は、前後を坂に囲まれた位置にあった宿場だ。
 保土ヶ谷宿から西に向かうと、「権太坂」「焼餅坂」「品濃坂」と尾根伝いの坂が続いた。「権太坂」を登り切ると境木立場があり、坂歩きに疲れた旅人が一休みできるようになっていた。
 「焼餅坂」「谷宿坂」は下り坂となり、品濃一里塚を過ぎると更に「大恵坂」「品濃坂」と一気に下る坂が続いた。品濃坂以降は暫くは平坦な道になったが、そのあとも「不動坂」「柏尾坂」があった。不動坂の手前には提灯立場があり、江戸に向かう旅人などは「品濃坂」に挑む前に一休みしたのかもしれない。

 戸塚宿の上方見附から藤沢宿に向かうと、先ずは大坂の二つの急勾配の坂に遭遇する。街道脇の大坂の碑には、「かつては二つの坂から成り立っていたようで「新編相模国風土記稿」によれば、一番坂登り一町余(百十m余)、二番坂登り三十間余(五十四m余)と書かれています。」とある。

 「吹上」あたりが最高地点で、浅間神社前までを一気に下る「牡丹餅坂」を経ると原宿立場で一息付けたそうだ。原宿立場から影取立場に掛けては若干の登り道が続いたようだが、影取立場を過ぎると藤沢宿に向けて下り坂が続いた。

 戸塚宿と藤沢宿の間には、「境木立場」「提灯立場」「原宿立場」「影取立場」という4つの立場茶屋が存在した。
 「立場(たてば)」とは、宿場と宿場の間にあって、旅人や人足、駕籠かきなどが休息した場所のことだ。もともとは、杖を立ててひと休みしたのでその名が生じたといわれている。
 戸塚から藤沢に至る尾根伝いの起伏に富んだ区間を歩くには、馬子や人足の休息のための立場茶屋の需要が高かったということだろう。

 立場は一般に宿場の出入り口や風光明媚な場所に置かれ、「立場茶屋」といって、土地の名物を用意した茶屋なども存在した。
 境木立場について「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、「権太坂、焼餅坂、品濃坂と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で、西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。」と書かれている。
 また、境木立場には、「参勤交代の大名までもが利用していた」と伝えられている「本陣さながらの構えの建物があった」そうだ。

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