見出し画像

#24 馬入渡しと平塚宿

牡丹餅立場と七里役所

藤沢宿と平塚宿の間には「立場(たてば)」と呼ばれる「茶屋」や「売店」などの休憩施設が4つあったそうだ。
その中の一つの牡丹餅立場(牡丹餅茶屋)は藤沢宿から一里半(約5.9km)の距離にあった立場。牡丹餅が名物だったとか。
宿場から1時間半あまり歩いたところで海を眺めながら一休みするにはちょうど良い位置にあったのだろう。

牡丹餅立場には、紀伊藩の七里役所もあったらしい。
七里役所とは江戸時代の大名が設置した飛脚の一つで、七里飛脚の継立場の役所のこと。
紀州家は江戸屋敷と紀州城との通信に七里飛脚という直属の通信機関を持っていた。
江戸・紀州間(584km)を約七里毎に中継ぎ役所を置き、5人1組の飛脚を配置していた。
普通便は毎月3回、江戸は5の日、和歌山は10の日に出発し、道中8日を要したようだ。特急便の場合は4日足らずで到着したという。

残りの立場は、大山街道との分岐点の「四谷」、茅ヶ崎の「南湖」と平塚の「八幡」にあったそうだ。

茅ヶ崎一里塚

茅ヶ崎一里塚は、日本橋から数えて14番目の一里塚だ。江戸時代は街道の両脇に塚があったが、現在は南側だけ塚が残っている。
一里塚は、5間(約9m)四方の大きさの塚で榎が植えられていた。
北側には松が植えられていたようだ。
昔の旅人は、木陰で一休みしたのだろう。

茅ヶ崎一里塚

旧相模川橋脚

関東大震災(1923年9月)と1924年1月の2度の地震で浮かび上がった7本の旧相模川橋脚。
1198年(建久9年)12月、源頼朝の妻政子の妹の夫である稲毛三郎重成が、妻の供養のために架けた橋の橋脚と考証された中世橋梁遺構だ。
現在の相模川より800m東にあり、流れが大きく変わったことを示している。

源頼朝は、相模川の橋供養式に参列の折、頼朝の乗る馬が突然暴れだし川に入り込んだことから、この辺りの相模川を「馬入り川」と呼ぶようになり、やがて「馬入川」と呼ばれるようになったそうだ。

辻堂駅南口近くにある「源頼朝公落馬地」の案内板には、「保暦間記」に「建久九年の冬、右大将(頼朝)殿相模川の橋供養に出で、還らせ給ひけるに、八的ヶ原という所にて、亡ぼされし、源氏・義広、義経、行家已下の人々の怨霊現じて、将軍の目を見合せり」との記載がある。
この後、頼朝は発病し、翌1199年(正治元年)1月13日に53歳で亡くなった。

旧相模川橋脚のレプリカ

馬入の渡し

江戸時代、相模川には橋は無く、渡し船「馬入の渡し」があったところだ。
現在の橋は1980年(昭和55年)に架橋された橋で、全長563m、幅13.3mある。

馬入渡川会所は、江戸時代に川越を取り締まった役所だ。
川役人が在勤し、渡船の管理や渡賃の徴収などを行っていた。
定掛り村としては、当初は須賀村だけで船を用意していたようだが、1692年(元禄5年)には対岸の柳島村も加わった。
渡船賃の徴収などを扱う川会所の運営や船頭の確保には、馬入村など5ケ村が助郷村として設定され業務を負担したそうだ。
川会所や渡船額などの情報を掲示する「川高札」は馬入村にあった。
相模川西岸のホテルの脇には、馬入渡川会所の石碑が立っている。

相模川から200m程進むと日本橋から15番目の馬入一里塚がある。
この一里塚は、現在は両側とも塚は残ってなく、石碑だけがある。
一里塚の間隔は厳密ではなく、茅ヶ崎一里塚から馬入一里塚の距離は、4.5kmあるそうだ。

馬入渡川会所跡の石碑と案内板

平塚宿

 東海道五十三次の7番目の宿場である平塚宿は、後北条氏が小田原に城郭を築いたところから発達した町だ。
 1601年(慶長6年)正月に徳川家康が定めた宿駅伝馬制により、東海道の宿場町として整備された。
 平塚宿は、江戸見附から十八軒町、二十四軒町、東仲町、西仲町、柳町と続き、京方見附までの宿場の長さは9町5間(約1㎞)ありました。
1843年(天保14年)の「東海道宿村大概帳」では平塚宿の規模は、
戸数443戸、宿内人口2,114人(男1,106人、女1,008人)で、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠54軒の規模があった。
 平塚宿の本陣は建坪163坪、座敷数が20あったそうだ。
 問屋場は2軒あり、西組問屋場は1601年に置かれたが、東組問屋場は隣接する八幡新宿を加宿した1561年に増設されたとのこと。二つの問屋場は輪番制を敷き、十日毎に業務を交代していたそうだ。

平塚宿高札場の跡

 平塚宿は、1651年(慶安4年)に八幡新宿を加宿(かしゅく)に編入している。加宿とは、江戸時代、主要街道で駅逓事務を取り扱うために設定された宿場に人家が少なく人馬が足りない場合に、隣接する村を加えて人馬負担を補強したものだ。
 参勤交代によって東海道の交通量が激増したことが宿場の負担を重くしたようだ。

歌川広重「東海道五十三次 平塚 縄手道」

平塚の塚と高句麗山

要法寺の西隣には、平塚の地名の由来になった「平塚の塚」がある。
桓武天皇の孫で、高見王の娘、桓武平氏の祖高望王の妹である「平真砂子」が、都より東国へ下向の途上、相模国の海辺の里で急な病を得て亡くなったため、塚を築き葬られた(案内板にはなぜか「政子」と書かれてたりするが・・・)。
時を経て、塚は風化して平たくなったことからこの地域を「平塚」と呼ぶようになったそうだ。

歌川広重の東海道53次の平塚宿に描かれている高麗山(こまやま)は、平塚宿京方見附の西にある。
浮世絵に描かれた特徴のとおりの山で、麓には高来(たかく)神社の鳥居がある。山頂に上宮があるそうだ。
高来神社は、神皇産霊尊、天津彦穂邇々伎尊、応神天皇、神功皇后を祭神として祭っている。

平塚宿の先の高麗山

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?