見出し画像

#1 なぜ家康は東海道を整備したのか

街道整備の目的とは

 徳川家康が江戸に入府したのは1590年(天正18年)のこと。それから11年後の1601年(慶長6年)正月、家康は東海道の整備を命じ、宿駅伝馬制の整備がはじまった。東海道筋の宿場町には「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」を交付されたが、街道整備の目的は何だったのだろうか?
 目的として考えられるのは、やはり、
①東日本と西日本の二元統制のための情報通信網の整備
②領国経営のための物流網整備
の2点があったと思う。

 1600年(慶長5年)9月の関ヶ原の戦いで勝利した家康は、1601年(慶長6年)5月、上洛時の宿所として大宮押小路に築城を決定して整備を始めたが、同時に板倉勝重が京都及び機内の政務を担当するよう命じ、京都町奉行(後の京都所司代)を配置した。関ヶ原で勝利したとは言え、豊臣氏が残った状況で全国を支配するには西日本に目に見える形で徳川の統治を見せていく必要があったと思われる。
 このために、家康が伏見城を拠点としつつ、二条城と京都所司代という西日本支配に向けた統治機構を置き、更に東日本を支配する江戸とをつなぐことを意図して街道整備を進めたのではないかと考えている。

 モデルは二つあると思う。
 一つは、豊臣秀吉が整備した京街道。豊臣政権の政務を行う大坂城と秀吉の隠居城伏見城との間には、淀川左岸を整備した文禄堤(後の京街道)が築かれた。1596年(文禄5年)のことだったという。二つの城を街道でつなぐことで、秀吉は二元統制を行おうとしたと考えられる.。

 二つ目の街道整備のモデルは家康が、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の五ヵ国を領有していた時代の領国経営にあると考えられる。この時代、家康は五ヵ国総検地と農業政策の実施、領国の宿駅の整備などを行っている。この中で伝馬制に関しては、天正十五年から同十八年にかけて駿府、岡崎間の東海道の各宿駅に家康の伝馬朱印状が多く発せられていたという。
 例えば、駿府-浜松間では以下の朱印状が発行されている。

 「伝馬壱疋、駿府はま松迄、上下無相違可出者也、以如件
     天正十八寅年二月四日
        右宿中    」

 東海道筋には、駿府、浜松、吉田(現在の豊橋)、岡崎といった重要拠点があり、これらの伝馬朱印状から、駿府から領国内の統治を東海道筋を中心に活発に行わっていたことが推察される。

東京駅日本橋口前にある北町奉行所跡

家康のまちづくり

 小田原攻め前の徳川家康の五ヵ国の領国の石高は約119~130万石であったといわれる。関東移封にともない家康の領国は、武蔵、伊豆、相模、上野、下野、上総、下総の七ヵ国となり、石高は倍増の約250万石となった。
 江戸の町は、1590年(天正18年)の徳川家康の入封によって整備が開始されたが、250万石の大名に相応しい城と城下町の整備が必要だった。
 江戸期に入るまで、鍛治橋から銀座のあたりは「前島」と呼ばれる砂が堆積した微高地だった。現在の丸の内から新橋にかけては、平川が流れ出る「日比谷入江」と呼ばれる浅瀬の海が広がる一帯で、新橋から浜松町に掛けては陸地が途切れた海域だったのだ。
 家康は、このような関東の片田舎に過ぎなかった土地に本拠を置き都市整備を進めた。江戸城のまわりに堀をめぐらし、その土砂で湿地を埋め立て、さらには東海道、中山道などの街道を整備して、江戸に人や物が流入する仕組みを作っていった。
 家康が江戸の整備で実施したことは、大きくは以下の2つがある。
① 領国支配の拠点となる城の整備
② 商工業振興のための町場づくり

① 領国支配の拠点となる城の整備
 家康が入府して以降、1603年(慶長8年)までの13年間で江戸は、徳川の領国経営のための江戸城と家康の隠居城としての(「西の丸」の地の)新城の構築が進められるとともに平川の付け替え(日本橋川)が進められた。「日比谷入江」は、1592(天正20)年に「西の丸」の築城工事の残土で埋立てが始まっていたが、江戸を開府した1603(慶長8)年から本格化し、全国の大名に普請を命じて外濠や運河の開削など江戸の町の大改造を行われた。

② 商工業振興のための町場づくり
 家康入府前の江戸では、鎌倉街道の下道(しもつみち)が江戸を通っており、その先は浅草、松戸を経て奥州街道につながっていた。江戸城から浅草に抜ける道沿いには町場があったらしいが、家康入府後の1590年(天正18年)から1603年(慶長8年)までの間に町割りが行われ、本町(現在の日本橋本町)及び本町通りが整備されたと思われる。

江戸城の石垣と堀

東海道は最初何次だったのか?

 関ヶ原の戦いから三ヶ月後の1601年(慶長6年)正月、江戸幕府は東海道の宿場に対して徳川家康の「伝馬朱印状」と、伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安三名の連署による「御伝馬之定」)を交付している。この2つの文書の交付をもって近世の東海道は成立し、東海道の宿場に関する宿駅伝馬制が開始されることとなった。

 ところで、1601年の時点で文書が交付された東海道の宿場町の数はいくつだったのだろうか。東海道筋の宿場設置時期を調べていくと、岡部宿(1602年)、戸塚宿(1604年)、石薬師宿(1616年)、箱根宿(1618年)、川崎宿(1623年)、庄野宿(1624年)の6宿は1601年以降に設置された宿場とされている。他にも51番目の石部宿の設置時期は1601年説が有力だが1615年説もあるらしい。また、御油宿と赤坂宿は当初は赤坂御位宿という一つの宿場だったという。ちなみに御油・赤坂間は1.7Kmとかなり近い位置にある。そうすると、宿駅伝馬制が開始された時点の東海道は46次ないし45次だったことになる。

 宿場設置を断った町もあったという。小田原宿と三島宿の間には、「芦川宿」いう宿場が芦ノ湖畔にあったという。幕府は当初そこに朱印状を渡す算段だったようだが、芦川宿はこれを断ったという。このことが元で箱根に関しては、宿場設置を17年後の1618年(元和4年)まで待たなければならなかった。今のところ、江戸幕府の当初の伝馬の要請を断ったことが知られているのは、東海道中ではこの箱根の芦川宿のみの様だ。

 東海道を大坂までの57次とすることもあるが、追加された4宿、伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿が東海道の宿場として設置されたのは、1619年(元和5年)とされている。この年は、大坂夏の陣が終わり、江戸幕府が大坂を直轄領として支配下に置き、大坂城代及び大阪町奉行が置かれた年でもある。
 延長された4宿がある街道は、秀吉が大坂と伏見間をつないだ京街道だ。京街道の大坂の起点は当初、寝屋川に掛かる京橋であったが、東海道に組み込まれた頃には高麗橋に移転している。

リレー方式の宿駅伝馬制

 宿駅伝馬制は、公用の荷物を宿場毎にリレー方式で運搬する制度であり、幕府の交通行政の根幹をなすものであった。
 先述の徳川家康の「伝馬朱印状」は、「此の御朱印なくしては伝馬を出すべからざる者也」という文言に朱印が押されているだけのものだ。つまり、伝馬利用を許可する朱印が押された伝馬手形を携帯していない者に対しては、宿場が公用の伝馬を出すことを禁じたものである。

また、「御伝馬之定」は、各宿場が常備しなければならない馬数(36疋)や荷物などを継ぎ送る隣宿の指定、その見返りとしての町屋敷地にかかる地子(農村の年貢に相当する)の免除、伝馬における荷物の制限(重さ30貫まで)などの5カ条からなる定書である。

浜松宿に交付された、「御伝馬之定」は以下の内容だ。

  御定目之写
    御伝馬之定
 一三拾六疋ニ相定候事
 一上口ハ舞坂江、下ハ見付迄之事
 一右之馬数壱疋分ニ居屋敷六拾坪つゝ被下候事
 一坪合弐千百六拾坪、居屋敷を以被引取事
 一荷積ハ壱駄ニ付卅貫目之外付申間敷候、其積りハ秤次第たるへき事
  右之条々相定上者相違有間敷者也
  慶長六年
    丑正月
            伊奈備前   御印
            彦坂小刑部  御印
            大久保十兵衛 御印
               浜松
                  年寄中

 伝馬制度はその後、東海道の交通量の増加に伴い各宿場が提供する伝馬、伝馬人足も負担増となり、1638年(寛永15年)からは馬の数は1日あたり100疋に増加され、荷物を運ぶ人足も100名となった。宿場町にとっては重い負担である。この重い負担がその後、加宿や助郷制度により、周辺の村々にまで負担を強いるようになっていく。

江戸の三伝馬町

 1603年(慶長8年)、日比谷入江沿いの千代田村、宝田村、祝田村の3村に住む「佐久間善八」、「馬込勘解由」、「吉沢主計」、「高野新右衛門」、「小宮善右衛門」、「宮辺又四郎」の6名に江戸城下の伝馬役を命じた。ここから3村伝馬役がスタートしたとみられる。
 江戸城西丸下付近に位置した3村は江戸城域の拡張にともない移転を余儀なくされ、1606年(慶長11年)、3村は移転した。

 現在の皇居外苑3番(和田倉噴水公園付近)にあったという千代田村は小伝馬町(現在の日本橋小伝馬町)へ移転、現在の皇居外苑2番(馬場先門より北側)にあったという宝田村は大伝馬町(現在の日本橋本町ニ・三丁目と日本橋大伝馬町)へ移転、 現在の皇居外苑1番(馬場先門より南側)にあったという祝田村は南伝馬町(現在の京橋1~3丁目)へ移転したという。

現在の大伝馬町界隈

 三伝馬町の役割は、公用の荷物を宿場毎にリレー方式で運搬する道中伝馬役を担うことであったが、三町には役割の違いがあった。
 大伝馬町と南伝馬町は、江戸から四宿(品川宿、千住宿、板橋宿、内藤新宿)までの以下の業務を担当した。

1)幕府老中の奉書の送達
2)伝馬朱印状を持つ公用の書状や荷物の運搬のための人足と馬の無償提供
3)幕府役人の公務出張のための人足と馬を御定賃銭で安価に提供
この伝馬役を差配する業務を、月の前半は大伝馬町、後半は南伝馬町が担当し、両町の分担で実務を滞りなく遂行することが道中伝馬役の役割であったという。
なお、小伝馬町は江戸府内限りの公用の交通・通信を担当した。

 村民はそれぞれの町域で引き続き伝馬役を継いだ。伝馬町にはそれぞれ荷受問屋が集まって活況を呈し、後にさらに商家や仕入問屋も集まって繁栄していくことになる。1638年(寛永15年)にはこれらの付属町として赤坂と四谷にも伝馬町が起立している。

 三伝馬町の請け負った業務は重要且つ重い負担を強いたことから、家康は、村民たちに他の町域よりも馬の出入りが可能な大きな庇家(ひさしや)と全江戸町域筆頭の格を与えたという。また、江戸の鎮守であった山王権現(日枝神社)と神田明神(神田神社)の隔年で開かれる両例大祭(6月15日の山王祭と9月15日の神田祭)に、三伝馬町は毎年山車を出してよいという栄誉を与えていたという。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?