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背筋に響く詩と音と

ずっとほしかった詩集を買った。


この表題作の詩をちゃんと読んでみたいなと、昨年の末ごろから思っていた。
ようやく叶った。


(ところで新アカウントになってからは敬体文で記事を書いていたけれど、そろそろ従来の常体文に戻します、いや、戻す、である)


詩集を買ったのはずいぶん久しぶりのこと。

と思ったらそうでもなかった。
二年ぐらいまえに中原中也の「汚れちまった悲しみに」を購入している。文豪ストレイドッグスバージョンの装丁のために。そして読んでいない。すみませんすみません。

ちゃんと買って読んだのはウンベルト・サバだったかもしれない。
となるとざっと十五年ぶり。


有名な詩だと聞いているのでご存知の方も多いだろうけれども、以下、書き写しておく。


ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分でまもれ
ばかものよ



すごいなあと思う。
こんなに端的に、何かを、こう、何というのだろう、何かを、とにかく言いたいことをまとめられるって、すごい。


すごいすごいと感心しながらお風呂に入ってぼんやりしていたら、そういえばマザー・テレサもちょっと似たことを書いていたなと浮かんできた。
「思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから」ではじまる、これも有名な訓戒のようなもの。最後が「それはいつか運命になるから」ではなかったっけ。
これ、聖書に記されている「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とのパウロの教え方に倣ってもいるのかな。この連想していく感じが。何となく。


ともかく、茨木のり子もマザー・テレサもパウロも、言っていることはそんなに難しくはない。
でもなかなかこういうことを聞かせてくれる人はいないし、実際に目の当たりにするとはっとする。
自分で気づけなかったことが恥ずかしくなり、情けなくもある。
同時に、こんなに立派なひとがこれを他の誰にでもなく己にたゆまず言い聞かせているのだろうと考えると、ほんとうにすごいなあと呆然としてしまう。


せっかくなので音読してみた。
最近、気に入った文章やせりふを声にするという行為を趣味に追加したばかりなのである。暇でなければできないことである。

とても読みやすいのでびっくりした。
さすが詩だなあ。
計算づくでなく、感覚で、音の響きや流れも作品にこめているんだろうなあ。
すごいなあ。


それにしても、感受性と感性ってどう違うんだろう。

感受性は、「受ける」くらいだから、何かに対しての反応であったり、呑みくだし方であったりするのだろうか。
感性がもし生まれながら、育ちならがらのものなら、それに自分で追加していくものが感受性なのかな。

辞書を調べれば載っているのだろうけれども、自分の想像力ぐらい自分で守ればかものよ。


私がこの詩を音読(朗読ではない)すると、つい怒ったふうになってしまうが、これも月日とともに変わる気がする。
だから折りにふれ、音読できるように、この詩集は手近に置いておきたい。


ちなみにちょっとだけ語尾や表現を変えて「エヴァンゲリオン」のアスカ風に読んでみると最後をちょうど「あんたバカァ?」で締められるのでかなり良い感じになる。これには我ながら驚愕した。この世紀の発見をここにご報告しておく。是非お試しあれ。






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