ジャン・カルヴァン(1509〜1564)の信仰は市民層に広がる
北フランスピカルディ地方の内容の生まれ、父はノアイヨン司教の書記。1523年ペストがノアイヨンを襲ったのを機に勉学のためにパリに出て、パリ大学で学ぶことになる。当時、パリ大学はカトリック正統派神学の牙城であった。彼は、ここで中世思想の中心であったスコラ哲学を学ぶことになるが「なんと空虚な学問であることか」というのが彼の感想であった。
1527年、神学から法律学に転じ、大学を転々とした後、再びパリに戻る。この頃パリ大学では古いスコラ哲学と新しい学問の葛藤になっていた。ギリシャ哲学を範とするこの新しい学問に彼は心を寄せ、新しい学問の基礎である人文主義(ユマニスム→ヒューマニズム)に傾いていく。
「長老派」の導入
彼の新しい信仰の形態は、「四聖職」によって営まれるものであった。4つ聖職とは「牧師」「教師」、その地区の「長老」そしてまた新しい教団の民間の「執事」のことである。とすれば、カルヴァンの新しいプロテスタント信仰の形態は新しい市民層によっても担われるべきだということが明らかになる。ルター派以上に、新しい市民層によっても歓迎された所以である。
「二重予定説」でお金儲けを肯定
しかし、カルヴァンの神学思想の中核は、あの古代末期のアウグスティヌス(354〜430)の「二重予定説」、つまり人間は救われるものと救われざるものに二重に予定されて産み落とされているという説に由来するものであった。では、自分が救われる者と予定されていることを確認するのは何であるのか。それは、神の思し召し(Calling)に応じることによってである。神のCallingとは何か。それは神の指示(職業)に精を出すことである。
このような二重予定説が、16世紀近代初頭のカルヴァンによって再び取り上げられたのは、この頃勃興しつつあった「近代的人間」つまり、「資本主義的人間」の欲求にぴったり適合するものであったからである。こう規定したのは、20世紀の人物マックス・ウェーバーであった。
それはともあれ、カルヴァンはフランスを追われ、スイスのジュネーブを中心に新しい信仰を語り、当時の市民層ばかりでなく、世界の(新大陸であったアメリカ大陸への第一陣もこのカルヴァン派であった)プロテスタントの中心勢力となる。これは、あのルター派がドイツにのみ限定されていたのと違って、カルヴァン派は世界的規模のプロテスタントの中心勢力となる。
カルヴァンの代表的著作「キリスト教綱要」(1536)は従って、世界的プロテスタントの基本テキストになっている。
いわゆる、イギリスのカルヴァン派が「ピューリタン」を名乗り、新大陸アメリカへ出港したのは有名な史実になっている。