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キリスト教理解の基礎用語


哲学の諸問題を扱うにあたり、どうしても避けて通れないのがキリスト教に関する理解と知識である。なので、キリスト教に関する知識は気がつき次第、こちらに書き加えていきたいと思う。

イエス・キリスト


イエスは個人の名前。キリストは救世主という職分。

洗礼者ヨハネ


バプテスマのヨハネ。民衆は彼こそがメシアではないかと疑ったことがある。しかし、彼は「私より優れたの方が後から来られる。私はかがんで、その方の履物の紐解く値打ちもない」。ヨハネにまつわる伝承として、イエスがヨハネから洗礼を受けた、ユダヤのヘロデ王に幽閉されたというものがある。

イエスは生涯独身であったか


復活の日に立ち会ったマグダラのマリアとは、一体いかなる女性であったのか。マリアという名前が多く新約聖書に登場する。一番有名なのは聖母マリアであり、次にこのマグダラのマリアであろう。マグダラのマリアは生前イエスの奥さんであったとする説まで登場している。しかしこれは、異端として退けられている。

12人の使徒について


「12」と言う数字は聖書に度々登場する。例えばイスラエルの12部族と言ったように12と言う数字は彼らにとって幸福のイメージがつきまとう数字であった。第1番目の使徒はペテロ。彼は初代教皇となる暴君ネロによって殺害される。第2番目の使徒はパウロ。初め彼はキリスト教迫害の先鋒であったが回心し、やはり殉教する。第12番目の人がユダである。

ユダは単なる「裏切り者」なのか


イスカリオテのユダは、金銭で師イエスをローマ総督側に売り渡したと新約聖書では語られている。つまりユダは裏切り者の代名詞のように扱われている。しかし、それは本当か。ユダのあの行為がなければ、イエスは十字架にかけられることもなかった。また、代わりに復活もなかったであろう。とすると、ユダはイエスに背いた裏切り者ではなく、イエスを「キリスト」たらしめたものではないのかと言う問題提起が新資料によって語られるようになった。

この新資料とは、第二次世界大戦直後発見された資料、ナグ・ハマディ資料である。→「ユダの福音書」

使徒トマスが提起する「信仰」と「知識」


彼は「知」によってでなければ、イエスの復活も信じられないと語った使徒であり、復活したイエスはその傷口をトマスに触れさせている。このエピソードは、信仰は信じることによってか、もしくは知識によってかと言う問題提起をする。正統信仰は「信」によって、いやしかしーー?

「ヨハネ黙示録」の問題


新約聖書が成立したのは、なんと紀元後4世紀に入ってからのことであった。397年カルタゴ公会議で現在の27巻の聖書が公認されたのである。新約聖書のうちの最後に掲載されている「ヨハネ黙示録」に問題があった。

  • 四福音書の伝えるイエスは、愛と慈のイエス

  • ヨハネ黙示録の示すイエスは、剣と怒りのイエス


ヨハネ黙示録の示すイエス像が、四福音書のイエスとあまりにも違いすぎるので、公の会議でヨハネ黙示録が正式に教会で読まれるものと認定されたのは紀元後633年の第4回トレドの公会議においてであった。では、それまでの信者は聖書を持ちえなかったのか。→持ちえなかった。

それまでの古代末期から中世初頭の信者たちの識字率が低すぎ、信仰は集団とそれを率いる聖職者たちの「話し合い」によって営まれていたからである。聖書が信仰の手がかりとなるのは、近代初期のあのプロテスタントの登場によってであった。

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