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歯と爪と骨をつなぐ糸

 たまにはエッセイらしいことを少し。久々に。

 先週から歯が痛かったので予約を取り、今日の午前中に詣でて来た。
 実に五年ぶりぐらいの歯科。医師には「三年ぶりです」と申告しておいた。四捨五入すれば五にも三にもなるのではなかろうか。さんすうは苦手である。
 結論から言うとおおかたの予想どおり最後に残った親不知が悪さをしているとのこと。
 だがそれだけでは済まず、親不知付近の歯も虫喰いになっているからまずそれを抜こうということになった。
 親不知の処置のほうが手間が掛かり、それを軽減する順番があるのかどうか、歯医者さんの論理など私には分かりようもない。
 ただ、「今日は親不知を抜く時間はない」と仰っていた。
 それでも普通の虫歯(と言うのだろうか)を抜くのに一時間以上をかけていたことを思うと、いったい親不知抜刀は何時間を要するのだろう。これまで三本の親不知を抜いてきたはずなのに、五年より過去のことなど振り返ってはいられない。

 さておき麻酔をかけてもらい、しばらく楽にしていてくださいねと医師とナースは席を外した。
 寝ている姿勢で眼鏡を外さずにいるのはどうにも居心地が悪い。
 もぞもぞと眼鏡をとっぱらって、完全にぼやけた天井を見上げていたら、ふと「人間の身体の中でそこそこ容易に替えの利く部分って歯じゃないだろうか」という考えが湧いてきた。

 入れ歯。ある程度の年齢になれば部分的にせよやるもの。そんなイメージがある。九十代でお亡くなりになった方が「でもあの方、入れ歯がなかったそうですよ」となると「まあ、すごいわ」と感心すべきところではないだろうか。これが百歳ぐらいだと「すごい」では納まらず「長生きの秘訣は歯なのか」などと真剣に問いたくなる。
 差し歯。中学生時代に氷室冴子の平安コメディ小説が流行していた。私はそれのマンガ版を読んでいたのだが、ヒロインの恋人は前歯が一本、差し歯である。「唐の真珠を粉にしたものを材料として使っていると聞いた気がする」と、ヒロインがそんなようなモノローグを語っていた。へえ、真珠かあ、と単純に驚いた後、ヒロインたちは貴族階級だからそれも可能だろうけど平民はなかなかそうはいかないよなあ、とか、貴族でも前歯だからそうしたんだろうな、奥歯だったらまあ見えないし、とか、日本でも真珠は採れるだろうに唐のものを使うのはやはりステータスなのか、それとも質の問題なのか、とか色々と想像を巡らせたものだった。
 インプラント。詳しくは知らないが「入れ歯じゃない」とは聞く。何やら「入れ歯じゃない」ことは重要らしい。比較的、最近の技術ではないかと察する。カタカナ語だから。

 もとの歯が正常に機能しなくなった場合、こうやって代替するのだろうが、人間の身体でこれほど易々と対応できる部位が他にあるだろうか。
 もちろん、義足や義手は昔からあるし、臓器もドナーがいれば可能だし、心臓だって人口のパーツで動かせるらしいことは知っている。
 でも「こんど手術して義手になるんだ」と、紅茶を飲みながらするような話ではない。課程はどうあれ、何となく不幸な出来事のような気がする。
 これが「ついに入れ歯だわ」だと「おお、ついにかー。総入れ歯?」などと、これ見よがしに煎餅をかじりつつふんふんと聞くこともできる。実際にやるかやらないかは別にして。

 私は三十代になるまで歯医者に通ったことがなかった。あちこち不健康なのだが、歯は意外と丈夫だったのだ。
 だから平均的な日本人に比べると歯科に関して無知であることを自覚している。
 それでいてなお、疑問に思う。歯という口を閉じれば見えない部分を探る医学の発展は、他の部分に比べるとやや後まわしにしがちだったのではないかと。
 (だって患者も歯が痛いの後まわしにするじゃん。その点は私も例外じゃないじゃん)
 近代になって一気に研究が進み、隠されたニーズが次々に明るみに出た結果、歯科は医学としてはやや特殊な立ち位置に回ったのではなかろうか。
 日本の平安時代に既に差し歯の技術があったとして、そこから入れ歯に到達するまで数世紀を経ていそうなイメージ。広く庶民のものになるのに更に一世紀ぐらいかと、憶測ともつかぬ想像だけ巡らせてしまう。

 そういえば十年ほど前に左足の親指を手術した経験がある。
 当初は巻き爪と診断された症状が治っては再発し、を繰り返した末に、三年目にして「化膿性肉芽腫」と最終審判が下された。その間ずっと液体窒素の治療を受けていたのは何だったのだろう。とんでもなく痛かった。液体窒素といえば「ターミネーター2」だろうと思っていたのに予期せぬところで要らぬご縁ができてしまった。
 もう手術しか手がない(足なのに)となった時は、いっそほっとした。
 手術は局部麻酔で行われた。「寝ていても良いし起き上がっていても良いですよ」とのことだったので、上体を起こして術式を見守っていた。
 簡単に言うと爪を半分ほど根元から除去する処置と聞いていたが、メスを動かしながら医師が説明してくれた。
「実は爪ってどこまで爪でどこから骨か未だにはっきりしていないんですよね。だから骨も削ることになるんだけど削った感覚で初めて骨って分かるぐらい境い目があいまいなんですよ」
 完全に初耳だったからそれはもう驚いた。表面に見えている爪は間違いなく爪だが、爪も骨の一部だと読んだことはあった気もするが、爪の奥の仕組みは考えたこともなかった。まさか途中から骨だったとは。しかも専門家たる医師ですら詳細は不明だなんて。
 結局、どれくらい骨を削ったのかは聞き損ねたが、「これでもうこの爪は痛まないし、伸びません」とお医者さんははっきりと仰った。
 伸びている。普通に。
 どういうことなのだろう……。と謎めいたまま毎回、爪切りでぱちんと切っている。
 でも痛まなくなったのは事実で、それさえ起こらなければ問題は無い。爪が伸びるのは健康の証だろう。恐らく。

 下手したら爪と骨の関係については、歯よりももっとずっと明白に解明されず来世紀を迎えてしまうのかもしれない。
 そんなことを考えている間に歯の治療は滞りなく進み、一度だけ「痛かったら我慢しないで言ってねー」と声をかけられた時に即座に眼鏡を持った手をぶんぶん上下させて「あ、痛い?」「ふぁん」と意思疎通を図り、麻酔を追加してもらっただけで、実にあっけなく虫歯は抜けた。
 本音を言うと、最も痛かった瞬間は最後の最後。縫合の糸を引きしぼった際に、虫歯とは逆側の唇の端にしゅっと触れた。あいにく口角炎で切れ目ができていたところをもはや美しいとさえ呼べる手さばきで摩擦してくれてとてもとても痛かった。出血には至らなかったのが不思議なくらいだ。

 これを書いている間に指定の時間になったので化膿止めを飲んだ。明後日、今度は消毒に出向く。親不知のことはその後になるという。
 私は歯医者と無縁の期間が長かったせいか、歯医者に対する恐怖はほぼ無い。
 ただ、面倒だとは思う。長引くし、マメに通院することになるから。
 でも引っ越してきて以来、あまり通らなかった道をのんびり散歩できる、良い機会でもある。しばらくは楽しんで、夏の盛りになったらここぞとばかりサボりたいと、そんなもくろみで今は居る。



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