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「南海フェリー1便」青春の合言葉

 南海フェリーは和歌山と徳島の間を2時間半ほどで結ぶ航路である。旅客運賃は2200円だが、通年発売している徳島港~南海電車各駅で利用できる企画乗車券が同額なので、実質的に言えば「フェリーを利用することで南海電車に無料で乗車できる」という強みを持っており、乗り鉄や貧乏旅行者の強い味方である。

 さてこの南海フェリーは、通常2便から9便までの8往復が運航されている。1便はといえば、通年休航となっており、1年のうち繁忙期の数日にしか運航されない。いわば幻の便なのだ。その1便の時刻といえば、下りは和歌山港0時30分発、徳島港2時30分着。上りは徳島港0時10分発、和歌山港2時15分着。とても一般的な移動に使えるような時間帯ではない。なるほどこれは通常運航されないわけである。

 そんな南海フェリー1便に、私は一度乗船したことがある。当時高専2年生だった、2016年の夏のことだ。ちょうど青春18きっぷを1日分余らせており、四国行きを画策していたのだが、瀬戸大橋を往復する行程では大阪から岡山のそこそこ長い距離を往復することになり、面白みに欠けるうえ四国に滞在できる時間が短い。どうにかいい方法はないかと考えていたところ、ちょうど予定の空いている日に1便が運航されていて、乗船できることが分かった。なるほどこれに乗れば2000円を追加するだけで往復の行程を変えられるし、朝から四国に滞在できるし宿代もかからない。「南海フェリー1便で四国に行こう」私はそう思い立った。

 ところでこの旅は一人旅ではなく、同行者がいた。どうして同行することになったかはもう記憶にないが、Twitter上で知り合った友人と二人でこの行程を行うことになったのだ。彼は普段鎌倉に在住しているが、祖母の実家が関西であり、こちらに帰省していたこと、そして彼もまた青春18きっぷを余らせていたことで、たまたま都合が合ったのである。

 私は企画券を有効活用すべく河内長野から南海電車に乗車し、新今宮から和歌山港行き特急サザンに乗車した。このとき同行者は関西空港にいて、泉佐野で合流する予定であったため自由席に乗るつもりだったようなのだが、サザンプレミアムに乗車したかった私は2人分の指定券を買ってまで指定席への課金を敢行、指定券自体は私の奢りのつもりだったのだが、結果的に自分のぶんは出してもらうことになってしまった。申し訳ないことをした。

 最終のサザンが和歌山港に着くのは21時台で、1便まではかなりの時間があるが、特に何かができる時間でもない。翌2時台には徳島に放り出されることを考え、港のベンチを使って仮眠を取ることにしたのだが、私はほとんど寝ることができなかった。このとき同行者はカバン用に鍵を持ってきていて、準備のよさに感心した。気になったのは、至るところで見つけることができた所謂「萌えキャラ」だ。南海フェリーには「高野きらら」「阿波野まい」という2人のPRキャラクターがいて、グッズが販売されていたりするのだが、さすがに男子トイレで彼女らと会うのはあまりいい気分ではなかった。また、彼女らの絵のタッチが死んだ目のように見えてしまったために、今に至るまで私は彼女らに「可愛らしい」というような一般的な感情を抱くことができず、素直に好きでも嫌いでもない、複雑な感情しか抱けていない。

 出航時間に余裕を持って乗船が始まる。時間が時間なので、徒歩で乗船する客は稀だった記憶がある。フェリーに乗船するというのはこの当時かなり新鮮な体験であり、心を躍らせながら廊下を歩いた。船内には様々なスペースがあるが、向かう先はカーペットだ。ここでなら横になって寝ることができるし、コンセントもあるのでスマートフォンを充電することもできる。横になり、出航を見送ってしばらくした後眠りについた。

 午前2時半という時刻は、旅先に着く時刻としてはあまりにも早すぎる。これは自明であり、とりあえず仮眠を取ろうとしたのだが、やはりベンチで寝るのは難しかった記憶がある。始発列車に乗るために、私達2人は歩き出すのだが、とりあえずその前にコンビニで朝食を買った。鮮明に覚えているのは、同行者は毎朝牛乳を必ず飲む習慣があり、そのためコンビニで牛乳を買っていたことだ。私もほとんど毎朝牛乳を飲むが、旅行中は飲まないこともある。とにかく夜が明けないうちに港を出発し、1時間余りの徒歩行軍を行った。遠征で長距離(というほどでもないだろうが)の徒歩を敢行したのもこの時が初めてだった。

 さて早朝の徳島駅から移動を開始するのだが、ほとんど寝ていない私はこの時点でかなり疲弊しており、同行者にも心配されていた。明らかに悪いコンディションの中、佐古で当時1日2往復だったキハ185系の「うずしお」狙いでカメラを構えていたのだが、あまりの暑さと疲労のために駅近くのスーパーでアイスを買った。このとき途中で来たN2000系が白幕で少し落胆したことも思い出に残っている。

 この後は高徳線で志度まで北上、そこからことでんに乗り換えた。琴電志度駅で配布されていたパンフレットには讃岐うどんの店の紹介があり、そこから気になった一店舗に向かうために車庫のある仏生山まで琴電に乗車した。この当時元京王5000系の前面幕を白色LED化したものが登場しており、なかなかインパクトが強かった。目的の店は駅から少し歩く場所にあり、目立つ外観ではなかった。住宅街の中にある、いかにも地元の人が行くような店という感じだ。

 私の家の近くには丸亀製麺がありよく通っていたのだが、本場の店で食べる讃岐うどんというのはやはりそれとは一味違い、まあ美味しかった。一般に「ご当地グルメ」とされているものはそこそこ高価だったりするのだが、こういう店で食べる讃岐うどんは安価なので学生にも優しい。旅行気分を楽しむという意味で、我々のような移動オタク以外にもおすすめできる。

 この後は高松に戻りマリンライナーで本州に帰ってくる。マリンライナーは指定席が満席になっており、人気を実感しながら自由席の空席を探しなんとか着席した。この列車の感想としては、なんといっても速さである。特に四国島内で驚くほど飛ばす。そして瀬戸大橋、瀬戸内の島々を臨んでいたらいつのまにか本州に上陸している……といった具合である。瀬戸大橋から眺める瀬戸内海は驚くほどの絶景でこそないが、日本という島国を移動していることを実感するには最適である。

 岡山からは一旦吉備線に乗車し、総社から直通の姫路行きに乗車。115系3両の運転であり岡山から乗車すると混雑で座れないというのでこの行程にした。実際岡山どころか倉敷から混んできたのでこの判断は正しかったといえる。さすがに眠気が酷く、日が暮れる時間帯だったのもあり、岡山から姫路の間の区間はかなりの時間をうたた寝して過ごした。この区間は駅間が長く、普通列車に乗車しているとどうしても暇になりがちな区間だ。ここから先のことはよく覚えていないのだが、姫路で新快速を一本見送って「えきそば」を啜った記憶がある(ひょっとすると別の遠征の回の記憶違いかもしれない)。せっかくの姫路名物だし、空腹だったのだろう。姫路から大阪は新快速というチート兵器のおかげで距離の割に所要時間が短く、爽快感が強いためストレスもない。つまり姫路まで帰ってきたなら、もう帰宅したようなものだ。その日のうちに私は帰宅することができた。繰り返すが私の記憶には、この日の夜のことがあまり記録されていない。同行者とどのようなやり取りをしたのか、どこで別れたのか記憶にないのだ。よほど疲れ切っていたからかもしれないし、もう5年も前だから仕方ないのかもしれない。

 以上が、私が四国、もっと言えば近畿地方以西に足を踏み入れた初めて(正確には中学校の修学旅行で訪れた沖縄だが)の日のことだ。ただ1回の旅行にすぎなかったが、今思い返せば、この日は私の人生において、重要な日のような気もするのだ。今日私のタイムラインには、フェリーで移動する旅行者が話題になっていて私は憧れを抱いているし、また私はJR四国の列車に極端なまでの偏愛を抱いている。この時の私にこんな未来は予想できなかっただろうが、私がこのようになった根源はこの日にあったのではないだろうか。この日から数年後、そこには瀬戸内の夜行フェリーに乗りJR四国の列車に乗車する……ということを数か月単位で繰り返している私の姿があった。何の因果か、九州への初上陸も、愛媛県八幡浜で知人と合流し、宇和島運輸のフェリーに乗って放り出された午前2時半の臼杵だった。深夜フェリーとJR四国は、オタクとしての私を構成する不可欠なパーツになっていた。そう考えるとあの日がなかったら、この私はいなかったのかもしれない。

 もう一つは、同行者との関係である。この当時、私はこの同行者と特別仲が良かった、というわけではなかったというように記憶している。尤も私は当時も今もインターネットを介して関わっている友人が多いので、基準を設定するのは難しいかもしれない。ただあくまで、一定の交友があった2人がたまたま都合があったから同じ旅程で旅行した、というものであった。同行者の彼とは、ここからしばらく微妙な関係を続けながら、少しずつ親しくなっていった(こんな書き方をすると誤解を招きそうだ)。少なくとも私にとって、いつのまにか彼は、私の特に親しい人の一人に数えられていた。いま私と彼は同じネットコミュニティに所属(?)しており、彼は私以上によく罵倒を受けている。ぶっちゃけて言えば昨今の彼はめちゃくちゃキモかったり意味不明な言動(自分の顔写真をハンバーグに合成するなど)を頻繁にしているが、まあ誤解のないよう、私はプラスの感情を抱いているということを書き留めておく。元々育ちの悪いオタクである私にとって、罵倒し合える環境というのは居心地がいい。面白い環境に身を置けていると思うし、そうやって親しみを感じられるようになったのにも、一つこの日がスイッチとしてあったのではないかと思う。

 私が「南海フェリー1便」を「青春の合言葉」と書いたが、記憶が正しければ、この表現も同行者からの借用である。先に書いたように、南海フェリー1便は滅多に運行されることがなく、また乗ろうと思っても容易に乗れるものではないうえ、どうあがいても過酷な行程になるため、乗船した経験がある者は多くない。ゆえに「南海フェリー1便」は、私と彼の間で、思い出を指す合言葉たり得る。そして同じ理由から、この先乗船の機会が訪れる可能性も低い。だからこそ「青春」という言葉が似合う。あくまで青春は過去なのだ。私の人生という一冊に、この1ページがまたやってくることはない。けれどこのページに記された出来事は、確かに未来へ繋がっていたのだった。

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