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旅人はただ、最北を目指した。

 旅は道連れ、世は情けという言葉がある。我々、「移動オタク」「おでかけオタク」などと呼ばれる人種が、旅先で同好の士と出会うこと―界隈風に言えば「エンカ」—そのものは、特に珍しいことでもないだろう。けれど、それに何か運命的なものを感じられたほうが、人生は面白いのではないだろうか。

新得~東鹿越の鉄道代行バス

 2021年8月29日。私は学生生活最後の夏休みとして、北海道旅行を謳歌していた。1日目の早朝に小樽に上陸し、留萌・旭川・網走・釧路と巡り、2日目は早朝から花咲線を往復したあと、新得から不通区間の代行バスに乗り、東鹿越に向かっていた。適当な座席を選んで座っていた私は、ああ反対側に居ればもっと景色が良かったのになと、小さな後悔をしていた。次にいつ来るのか、そもそも来られる機会があるのかもわからないような区間だ(実際に、休止どころか完全な廃線が決定してしまった)。睡眠時間が不足していたこともあって、うたた寝しながらバスに乗っていた。何気なくTwitterを開くと、ある一文が目に入った。

「東鹿越でTwitter検索かけたら高準さんヒットした 同電フラグかな」

 東鹿越というのは、たまたま代行バスと列車の乗り継ぎ地点となっているだけで、本来小さな無人駅にすぎない。周辺にもこれといって集落はなく、ただ湖が広がっている。そんな場所で、まさか見知った顔と出会うことがあるのだろうか。確かに夏休み中ということで、同時に北海道を旅している関西人は多数いたが、まさか東鹿越なんて。

 見知った顔と表現したが、私は今までに彼と2回会っていた。一度目は大阪で開発された、東方projectの同人イベントである。Twitterで検索をかけていたところ、FF関係にある人間がサークル参加していたため立ち寄ったのが初めての顔合わせだった。2度目は長岡駅である。私が長岡から大阪に帰省するために長岡駅に向かったところ、たまたま旅行中だった彼と出会い、浦佐まで上越線に乗車したのだった。そして今回が、3度目のエンカウントだった。そう、これまで一度も「会う約束をして」会ったことはないのである。そう何度も偶然で出会うことがあるだろうか。これだから旅は面白い。

 だが、この偶然は序の口にすぎないことを私は、そしておそらく彼も知ることになる。

 東鹿越で出会った私達は、ともに富良野行きの列車に乗り込み、話を始めることになる。私は一週間ずっと一人旅をするつもりでいたから、話せる知り合いと会えるのがまず嬉しかった。さて、偶然出会った旅人同士の会話といえば決まっている。「これからの予定」だ。

 そんなことがあるのか。これが率直な感想だった。この後富良野からノロッコ号に乗り、旭川のホテルで一泊、翌朝始発の普通列車で稚内に向かい、さらにバスで宗谷岬へ……。まったく同じ計画を立てていたのである。私は一人旅で、彼はたまたま別行動していたとはいえ友人と二人旅。使用している切符も違ったのに、ここまで被ることがあるのだろうか。これを偶然と片付けるのは惜しい。運命とでも呼びたかった。こんな重い言葉は、ただのオタク同士の関係に使う言葉ではないかもしれない。分からなかった。似たようなエンカウント自体は今までにも何度もあったが、こんなに偶然を面白いと思ったのは人生で初めてだった。

 私たちの関係を面白いと思った理由はもう一つある。私は一人旅の旅先で同好の士と出会えた感情の昂ぶりから、さまざまなことを話した。そしてわかったことが、(主に移動そのもの・あるいは移動手段のオタクとしての)私と彼の好みは、非常に近いということだった。私が楽しいと感じたものは、彼も楽しいと感じている。彼が行きたいと思っている場所は、私も行きたいと思っている場所か、行って楽しかった場所のどちらかだ。好みが近いことがわかれば、お互い好きなものを薦め合うことができる。本来オタクという生き物は、「蓼食う虫も好き好き」であり、人の好みが十人十色であることを何よりも大切にしなくてはならない生き物だ。お互いの価値観を尊重しなくてはならない。故に最低限の壁を張って交流するのが普通だ。その壁が、取り払われている感覚がした。同じものを好きでいられる人種。これを見つけられることは、何よりも幸せだ。富良野から旭川に向かうノロッコ号は、私達の「好き」を繋ぎ合わせるのに最適な乗り物だった。「ノロッコ」という名に反して爆走する客車で風に当たりながら、「これに乗ってよかった」と、口をそろえて言えた。

 旭川に着いた私たちは、明日を楽しみにしながら、それぞれ宿へ向かった。そして翌朝、朝6時の旭川で、約束通り私たちは再び顔を合わせることになる。彼は同行の友人とpeachひがし北海道パスを使用して来ていたが、宗谷本線はその対象外であるため、今日のみはわざわざ18きっぷを使うとのことだった。一方私は特急も使える北海道フリーパスを使用していたが、「宗谷本線を普通列車で走破してみたい」という欲により、わざわざ旭川を普通列車で発とうとしていた。我々の両方が狂った発想をしていたともいえる。そしてその狂いが故に、我々の行く道は一つになってしまった。ここまでまったく別のルートで、まったく別の切符で、北の大地を訪れた関西人は、こうして一つの道を行くことになってしまった。

 321D。旭川駅、6時3分発車。名寄から4323D、さらに幌延から4325Dと列車番号を変え、終着の稚内に12時7分に到着する。宗谷本線全線、259.4kmを、北永山を除くすべての駅に停車し、走破には実に6時間4分を要する。「最果てに向かう普通列車とはこういうものだ」と思わせる、長時間・長距離列車である。

 「乗り鉄」の思想を持つ者ならば、この宗谷本線に思いを馳せなかった者はいないだろう。私も例外ではない。路線図を開けば旭川からたった1本、ひたすらに北へ向かう路線、一つの憧れであった。この路線に乗って、北の果てを目指してみたい。その願いを、叶えようとしていた。

夜の旭川駅

 この路線の始発である旭川という街を一言で表すなら「都会」である。その人口は30万を上回る程度だが、駅を降りて眺める街並みは政令指定都市にも負けていない。整備された道路沿いにホテル等の高層建築が並んでいる。それは、この街が単なる30万都市ではなく、広大な道北の事実上の中心都市であることを意味していた。道北(や道東の一部)の人々にとっての最も身近な「都会」なのだった。むろん、駅自体も、近代的で立派な高架駅だ。

321D 旭川駅にて。

 その真新しいホームに、銀色の2両編成は居た。キハ54 529,528。偶然にもキハ54形(500番台)気動車のラストナンバー2両。早朝6時、3人の旅人は、この列車に乗るために、ホームに集ったのだった。既にある程度の座席が埋まっていた。旅行シーズン、同じ目的の旅人も少なくないことだろう。この車両は国鉄型気動車にありがちなボックスシートではなく、前を向けて座れる転換クロスシートを採用している。どういうわけか、彼は彼の友人とではなく、私の隣に座ることを選んだ。

 私は北海道に上陸して3日目だったが、留萌線・釧網線・花咲線と、キハ54形で運用されている路線ばかり巡っていたために、ここまでの2日間ですでに10時間程度、この形式に乗車していた。それがさらに6時間乗車することになるわけである。尤も、それは私にとって苦痛であるはずもなかった。この10時間で、私はすっかりキハ54形の虜になっていたからだ。

 キハ54形という気動車の特徴は、単行で運転できる気動車でありながら、1両に2基のエンジンを積んでいることだろう。これは北海道の厳しい気候の路線での、排雪走行と冗長性の確保が目的である。多くの気動車が1両に積んでいるエンジンは1基だが、万が一真冬の道北のような場所でエンジンが故障すれば、命すら危うい。しかし、安全のために何両も繋ぐほどの輸送量もない。そのために必要とされたのが単行2エンジン車だった。そういった理由から、留萌線・釧網線・花咲線・宗谷線(北部)といった条件の厳しい路線の普通列車で集中的に運用されている。私がキハ54形に感じていたのは、「強さ」「頼もしさ」であった。試される大地を走る、乗客を運ぶという任務を全うする、そういった覚悟のようなものを背負っている。切妻の正面、剥き出しのステンレス地に赤帯の武骨な風貌は、まさにそれに相応しいのではないだろうか。飾り気のなさこそが、この車両の魅力だと私は思う。

 旭川を出た列車は、しばらく旭川の市街地を走り、やがて網走方面へ向かう石北線に別れを告げる。この市街地はそれほど広いわけではない。永山を出て、北永山を通過する頃には、車窓には田畑が広がっていた。普通列車に通過駅があることは、北海道では別に珍しいことではなく、むしろ1駅しか通過しないことが意外ですらあった。

 今更ではあるが、このキハ54形500番台には冷房が装備されていない。現代の電車ではありえないことだが、国鉄時代北海道用に製造された気動車はこれが当たり前だった。北海道の夏は暑くないかといえば、決してそうではない。だが、非冷房車であるからこその楽しみ方もある。窓を開けることだ。窓を開けて外の風に直接当たる。夏の北海道だからこそできる、ローカル列車旅の醍醐味である。宗谷本線に限らず駅間の長い北海道の路線では、普通列車でもなかなかのスピードを出す。涼しい風を浴びるのは、本当に心地よい。新型の気動車ではできない、つまり数十年後の旅人には許されていないであろう特権を得ていた。

 比布を超えると列車は開けた田畑を出て森に入る。名寄盆地と上川盆地の間、塩狩峠である。旧式の気動車は豪快なエンジン音をあげ峠を越えようとする。古い車両がスピードを出すということは、相応の揺れも起きる。私と隣に座った彼は、それを何より楽しんでいた。私達は「うるさくて揺れる乗り物」が大好きだ。

 和寒、士別、名寄。このいかにも「北海道らしい」地名を辿ってゆくのも、また遠征の楽しみだと思う。7時台は高校生の利用が多い時間帯だ。士別や名寄のような市街地のある駅では、乗客の乗り降りが少なくない。北海道の夏休みは短いと聞く。もう学期が始まっているのだろう。普通列車は旅人のためにあるものではなく、常にこういった地元の人々のために走っているものだ。私も彼も、元々特急列車よりもこんな日常風景のもとにある列車が好きで、この点でも好みが一致していた。キハ54が持つ輝きというのは、「地域の足」として利用されていることに他ならない。

 名寄、7時40分着。13分の停車。ここで旭川から連れ添った2両目、キハ54 528を切り離し、ここからは1両で稚内に向かう。停車時間の間、ひたすら「普通列車 稚内行きです」の放送が響いていた。名寄は人口2万を抱える、宗谷線沿線随一の都市だ。かつては名寄本線・深名線の繋がる交通の要衝だったが、今はこの宗谷本線のみだ。それでも旭川と名寄の間はある程度の本数が確保されており、利用者がいることがうかがえる。宗谷本線は一般に、この名寄を境に宗谷北線・宗谷南線と分けられる。だがここまでの道のりはまだ長い宗谷線の1/3に満たない。この旅はまだまだ長い、そう思わせる場所でもあった。

 名寄を発車すると、車窓はさらに緑色となる。北海道の町は、市街地とそうでないところがくっきり分かれている場所が多い。私達を乗せた1両の気動車は、駅に止まりつつ、広い大地を突き進み続ける。

 先ほどラストナンバーのキハ54 529と528の2両編成と言ったが、この2両を含むキハ54 527~529の3両は、元々宗谷本線の急行列車用に製造されており、当時から他の車両と異なる座席を装備していた。このキハ54が主に運用されていた列車が急行「礼文」である。キハ54形は一般型気動車ではあるが、「宗谷」「利尻」などとともに宗谷本線の速達輸送の一翼を担っていた車両でもある。2両編成で旭川~稚内を結んだ急行だ。キハ54 529と528の2両編成で宗谷本線を往くというのは、往年の急行列車の追体験としての価値があった。尤も、現在は他のキハ54も転換クロスシートに改造されていたりして、急行用車両としての違いが何かあるわけでもないが、車両の歴史に価値を感じる私には、「乗れて嬉しい」車輌だった。

 北へ向かえば向かうほど、貨車を駅舎にしたような小さな駅も増えてくる。これも内地民の感じられる「北海道らしさ」だ。利用者はほとんどいないかと思いきや、稀に乗り降りがある。旅行者か地元ユーザーかはわからないが、廃駅も議論に上がる天塩川温泉のような駅でも乗り降りがあった。細かな乗り降りを眺めるのも、普通列車の楽しさである。

 音威子府、9時5分着。距離にして129km、距離・時間ともにようやく中間地点だ。宗谷本線の普通列車といえば音威子府で長時間停車しているイメージがあったので、3分のみの停車時間なのはやや寂しさを感じてしまった。もし時間があれば蕎麦屋でも食べに行きたかったのだが、そういうわけにもいかない。音威子府そばは閉店してしまったようでとても残念である。音威子府村は人口700人に満たない小さな村だが、周辺町村へのバスが出ている重要拠点となっており、最も人口の少ない特急停車駅となっている。「おといねっぷ」という響き、「音威子府」という字面も、また内地民が道北を意識するのに十分なものだろう。

 宗谷本線はまだ長く、道のりは半ばにすぎない。しかしそれは我々2人にとって、「この旅が続く」という幸せだった。風に当たり、エンジン音を聞き、道北の広い景色を眺め、北を目指し続ける。体全体で道北の旅を、キハ54を、宗谷本線を楽しんでいた。同行していた彼の友人はほぼずっと眠っていたのだが、我々2人はひたすらに興奮していた。彼が私の隣に座ったのは、この楽しさを共有できる相手として私を選んだということなのだろう。

 この辺りまで来ると駅間が長くなっており、1駅に10分以上かかることも珍しくなくなってくる。数年間の間に廃駅となった駅も多い。宗谷本線自体が決して安泰な路線ではない。だからこそ、今この旅をすることに価値があるのではないだろうか。Twitterを開くと、北海道に縁のある人々が私の旅に対してコメントをかけていてくれる。現代のネット社会は、一人旅であってもこうしてお互いに声を交わし合えるから、孤独感は低い。けれど今は、偶然にも本当に興味が合う友人がまさに隣にいた。糠南付近には、この列車を撮影する撮り鉄たちの姿があった。どのような手段で訪れているかはわからないが、多くの人々にとっては楽に来れる場所ではない。方向性は違えど、彼らも宗谷本線を愛しているのだろう。そういえば「糠南クリパ」なる企画もあったなあと思いだす。すっかり宗谷本線が好きになった私は、いつか参加できる機会があれば参加してみたいと思った。

幌延

 10時34分、幌延に着く。ここでは22分の停車時間があったので、駅の外に出てみることにした。北の小さな町には、涼しい風が吹いている。しかし、立派な駅舎があり、駅員のいる駅というのは、ぬくもりを感じるものだ。万が一乗り遅れれば大変なのであまり遠くには行けなかったが、まだこの駅は確かに町の玄関口であり、来訪者を歓迎しようとしていた。この付近には北緯45度線が通過している。つまりここより北は、北半球のさらに北半分ということになる。地図で幌延を見れば、もう最北まであと少しのように見える。それは正しいともいえるし間違いでもある。稚内まではあと60km、1時間ほどの道のりだ。そして私は確信していた。この1時間こそが、宗谷本線で最大の感動を得られる1時間だと。発車まで、キハ54を様々な角度から眺めてみた。この気動車は、本当にかっこよく、頼もしく、楽しい。また私と彼との2人で、キハ54の持つ「良さ」を心ゆくまで味わうことができた。

キハ54 529は北を見る。

 幌延を出た列車は、また北を目指す。こうして文章を書いている今でも、あの時の感動が蘇ってくるようだった。車窓に映るもので特徴的だったのが牧場だ。北海道には牛を飼う牧場があり牛乳などを生産しているということは知識として知っていても、実際に見るのは初めてだった。僕らは北を駆けている。幸せの感覚だった。そして、終着は近づいていた。

海を抜くと書いて抜海と読む。

 抜海を出た後、急に左側の車窓に見えたものが海だ。青と緑が美しいコントラストを為していた。「最北の車窓から見える海」という特別感は何事にも代えがたい。この景色が見えたときは、子供のように興奮してしまった。私達は夏の宗谷本線を誰よりも満喫していたのではないだろうか。冬の道北にも訪れてみたいと思う。列車が運行されるかどうかも怪しい世界だが、楽しいに違いない。

 またしばらくすると、車窓は都市へと移り変わった。南稚内に停車する。稚内は広い都市ではないが、人口3万を誇るまさに「最北の都」であり、小さな範囲に「街」が集積している。南稚内から稚内の間には、間違いなく都市の市街地が広がっている。それに心を動かされている時間は、もう長くはなかった。

南稚内~稚内にて。

 12時7分。終着・稚内に到着。北へ北へと目指した6時間は、ここに終わりを迎えてしまった。普通列車に6時間乗り続けることなどなかなかないはずなのに、まだ乗り足りないという感覚に陥る。本当に不思議なものだ。けれど鉄路で最北を目指したという達成感の前では、そんな寂しさは些細なものだったかもしれない。私達一行はまず昼食に向かった。駅の建物の中で食事ができるのも、「都市の駅」であることを感じさせる。稚内で食べる稚内焼きそばは、まさしく今求めていた味だった。身も蓋もないことを言ってしまえば、ここまで来た気分とともに食べるものはなんでも美味しく感じられる。旅人とはそういう生き物だ。

 さて、せっかくここまで来たのなら、バスで宗谷岬まで行こうというのが3人共通の目的だった。町を少し歩けば見つかる、ロシア語を併記した道路標識も、稚内を象徴する情緒の一つだろう。稚内から本当の最北まではまだ30km以上あるのだが、ここまでの道のりに比べればもはや誤差のようなものかもしれない。どうせ帰りの列車もないのだから、この町を楽しむしかない。私達は、最北を見に行った。

宗谷岬

 バスに揺られること50分、私達は最北に辿り着いた。柄にもなく碑の前で記念写真を撮り合った。遠くに樺太が見える、いい天気の日だ。私達は、広い大地の最果てに立ったのだ。それはひょっとすると、大して特別なことではないのかもしれない。けれど、確かに私達はそれを目指し、そして叶えることができた。疑いようのない幸福だ。旅人は果てを目指すに決まってるじゃないか。ただ行ってみたいというだけで、北を目指し続けた僕らが迎えたゴールはここにあった。そういえば、昨日は根室に行ったのに東の果てには行かなかったな。少しの後悔をした。なんのことはない、また行けばいいのだ。帰りのバスまでの時間に、周りを歩いたり高台に上ったりして、最北の空気を吸った。

ノシャップより。

 稚内駅行きのバスで戻った後は、バスを乗り継いでノシャップに向かった。高度が落ちてきた午後の太陽は眩しかった。もう、北の海の情緒を嫌というほど味わった。岬の柵に肘を置き、ただ海を眺める。こんなことに憧れていたなあ。それはもう、憧れではなくて、現実そのものだった。旅に満足できてしまった。けれど、帰らなくてはならない。旅はここで終わるわけにはいかないのだ。

防波堤ドーム

 バスで戻り、帰りの列車の時刻まで駅周辺をうろつく。私の帰路は札幌行きの特急宗谷、18きっぷを使っている彼らの帰路はキハ54の普通列車。稚内駅は、私達の別れの場所にもなった。東鹿越で出会い、24時間以上、350kmの旅路を共にして、旅の楽しさのすべてを共有した友人と、最果ての駅で別れる。これが創作ではなく事実であることに感謝したい。いつかの再開を誓い合って、私は一人特急列車に足を踏み入れた。

南稚内~抜海より。

 17時44分、私を乗せた特急「宗谷」は稚内駅を発った。あの長い長い路を折り返すのだ。往路に私達を感動させた日本海に、夕日は沈もうとしていた。特急列車は甲高いエンジン音を上げ、南へ南へ走ってゆく。さようなら、稚内。さようなら、友人よ。またいつか、この地へ戻ってこよう。

 やがて日も暮れると、車窓に映るのは反射する自分の顔だけになってしまった。町の明かりのない、暗く長い道をただひたすら走り続ける。特急でも名寄まではあまりスピードが出せない。それでもキハ54形とは違う、パワーのある走りだ。窓を開けるような楽しみ方はできないが、テーブルに飲み物を置き、座席をリクライニングさせてくつろぐことはできる。キハ261形0番台。いま宗谷本線の特急運用の殆どを担う、最北の路のエースとでもいうべき車両だ。豊富、幌延、天塩中川、音威子府、美深、名寄、士別、和寒。最後の最後まで、宗谷本線を私に味わわせてくれた。

 名寄を出るとこの特急車両は全力のスピードを出すことができる。軽快なエンジン音だ。やがて、窓に多数の明かりが映る。旭川だ。この都会は、夜も輝きを放っていた。既に21時26分、稚内を出て4時間が経とうとしていた。ありがとう、宗谷本線。

 旭川からは特急街道、函館本線に入り札幌を目指す。私は一つの後悔をしていた。夕食を買って車内で食べるべきだった。旭川から札幌まではまだ136.8km、全体の1/3程度の距離がある。特急宗谷はこの区間を87分で走り抜ける。上り特急「宗谷」は空腹の私が願うのに応えるかのごとく、豪快にエンジン音をかき鳴らし全力で札幌を目指す。

 車内チャイムが鳴り響き、ふと我に返る。車窓には再び、そして先ほどよりも大きく広い、大都市の夜景が広がっていた。200万都市、札幌。私は帰ってきたのだ。「自動放送のご案内は、大橋俊夫でした。」JR北海道の特急を象徴する、ダンディーな声で案内を締めくくる。札幌駅の直前まで繰り返しエンジンを鳴らし、少しでも早く着こうと走る。

 稚内から札幌、396.2km、5時間13分。北海道最長距離の特急列車に乗り通す。「乗り鉄」として、旅人としての一つの夢を、また叶えてしまった。すべてを満たした1日だった。いや、まだ満たされていないものがある。空腹だ。食料を調達すべく、セイコーマートへ向かった。

終着、札幌。



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