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【小説】光の三分間と声と言葉の青春⑩「くうきにんげん」

前回

 勉強合宿まで残り一週間を切った。自室の勉強机には、学校でもらったプリントが散乱している。先ほどから、一時間ほど椅子に座ってシャーペンを片手にプリントの裏に文字らしきものを書いてはいるが、それが意味のある形になることはなかった。
 おもむろに、ジャバラバの裏に書いた詩を見返してみる。しかし、これをみんなの前で発表して果たして観客に受けるだろうか。いや、受けないだろう。五十人の観客の前で誰にも届かない言葉を空に投げている自分の姿が容易に想像できた。そっと、ジャバラバを机の脇に戻す。

 何度も、何度も見た動画の中の谷川俊太郎と自分では、明らかに乗り越えられない大きな壁があった。
 詩のボクシングの参考資料がこれしかない今、基準を教科書に載るレベルの詩人に置かなければならないというのは、存外苦行だった。
 詩作の途中、何度か母さんが部屋に入ってきて“息子が物珍しそうに勉強している”目線を送ってきた。動物園の動物もこんな感じなんだろうなと思った。
 座高が高い椅子に長時間座っていたおかげか、尻が痛くなってきた。家にいると、家族の生活音がしてイライラする。気が散ってしょうがないので、散歩に行くことにした。

 家を出ると、腕時計の針は十二時を指していた。昼ごはんも食べていなかったので、僕は近所の松葉さんに行った。
 松葉さんは身長百八十センチのサングラスをかけたおじいちゃんと、身長百五十センチのふくよかなおばあちゃんがいる町中華の食堂だ。
 僕は炒飯の大盛りを頼んだ。僕が五歳の時からよく食べている炒飯だ。焼豚、ネギの他に、渦巻の蒲鉾を細かく切って入れてある、薄味で素朴な炒飯だ。やはり、慣れ親しんだ味というのはいつ食べても美味しい。

 炒飯を食べてお腹が膨れた僕は、詩作をするために図書館に行くことにした。図書館は、隣町まで電車で行かなければならない。
 駅に着くと、すでに電車は行ってしまっていて、次の電車は一時間後だった。

 電車を待つ間、詩について誰かにアドバイスを聞こうと思った。入学から二か月がたった今、僕の電話帳には母さん以外に二人、連絡先が増えている。僕はそのうちの一つを押下し、携帯を耳に当てる。
 しかし、電話を掛けるのって緊張する。コールが数回鳴る間、僕は落ち着かずに足をさすっていた。

 電話の向こうで繋がった音がした。
「リョウヘイ?」
 彼のもしもし。という声とは別に、電話越しに女性の声がした。
「ごめん、今日忙しい。メールでお願い、ごめんな!」
 リョウヘイは慌ててそれだけ言うと、僕が返事をする前に電話を切った。
 日曜日の昼から電話をかけて申し訳ないなと思いつつ、僕はメール文面に“リョウヘイはどんな詩を作る?”と打って送信した。

 続いて、電話帳から“檜山先生”を選んで押下する。数回のコールの後、電話がつながった。
「お休みのところすみません、先生。鷹岡です」
「おー、鷹岡か。なーん、かまわんちゃ。そっちから掛けてくるなんて珍しいのぉ、どうしたがけ」
 檜山先生は休みだというのに丁寧に返事をした。
「詩のボクシングについて相談がありまして。僕は何をテーマに詩を書けばいいのでしょうか。考えてはいるんですが、ちっとも思いつかなくて」
「鷹岡は固く考えすぎながやちが!」
 電話の向こうで先生が笑った。そしてしばらく間を置いた後、言葉を続けた。

「でも、そうやね。自己紹介とか?」
 檜山先生はいつも、僕には考えられないような型にはまらない柔軟な発想をする。例えば、古典の授業でも檜山先生は先生をしない。先生役は、生徒の中から決める。授業の初めに黒ひげ危機一髪で決められた先生役の生徒は、先生が指定した教科書の該当箇所を教壇でみんなに説明する。
 つまり、生徒全員が教壇で古典の授業をする可能性がある。そのため、みっともない姿をさらせないためにも、授業前には生徒全員が古典の予習をしてきている。やらされ感がない分、生徒たちも特に不満なく、自主的に予習をしていた。

「自己紹介も詩になるんですか?」
「なるやろ! 詩のボクシングで一番大事なのは何を伝えるかじゃなくて何を伝えたいかながやぜ。結果じゃなくて、何を伝えたいがかやちが」
 何を伝えたいのか。何を考えればいいのか分からなかったけど、少しだけ、考えるべきことが固まったような気がする。
「リョウヘイもやけど、二人ともクラスのみんなにちゃんと自分のこと伝えられとらんがやろ? だったらちゃんと自分はこんな人間ですってちゃんと伝えるのが先やちゃ」
「ありがとうございます」
 僕は電話を切った。切るとき、電話の向こうで頑張ってと聞こえた。

 そうはいったものの、自分が何者なのかが分からない。僕は自分探しの旅に出ようと思った。駅のホームでしばらく待って、電車が来た。高岡駅とは反対の氷見行きの電車に乗った。

 ワンマンのディーゼルカーを降りると、伸び切った草からムッとした臭いが鼻を突いた。目の前には田畑が広がり、そして遠くには日本海が顔を覗かせている。ふと目を凝らしてみれば、ホームには待合室の外側まで続く水平線が広がる。まるで海の先に線路が続いているようだ。
 氷見線は日本海に沿っており、一つ隣の雨晴駅からも海が見える。
 高岡駅から約十五分。本数は一時間に一二本。無人駅に降りる乗客は、僕ひとりだった。
 駅から歩いて五分。国分浜に着くと、僕は早速、靴下を脱いで砂浜に素足を下ろした。ここは、僕が小学生のころよく来た海岸だった。焼けた熱砂に足を取られながら波打ち際までいくと、沖からは暖かい潮風が吹き、波間にわかめが浮いていた。遠くには数組の親子連れが防波堤の消波ブロックの上で楽しそうに釣りをしている。こちらの方には誰も気づいていなかった。

 僕は背負っていたリュックにポケットから出した貴重品が入っていることを確認し、脱いだ靴下を詰め込んだティンダーレイクのスニーカーとともに乾いた砂の上に打ち捨て、そのままザブザブとスキニージーンズのまま水の中へと歩いていった。
 六月中旬でも日差しは強かった。直射日光で温くなった海水が胸まできたところで僕は体中の力を抜き、浮力に任せて浮かんだ。しょっぱい塩水が目に入らないように顎を引きながら、能登半島にかかる入道雲と千切れて流れる羊雲を目で追った。

 自分とは何者か。考えれば考えるほど、謎は渦を巻いて深まっていく。体を水に浸していると、僕はこのまま空気に溶けて富山湾に吹く風の一部になれたらと思った。

 目が覚めると山際がほのかにあかあかと燃え、暗いトンネルに氷見線の氷見行の明かりが消えていくのが見えた。
 僕は、何度も僕の肩を叩き心配そうに覗き見るガタイのいい釣り用のチョッキを着たおじさんの声で目を覚ましたのだった。どうやら眠っていたらしい。浜辺から五十メートルほど流されていた。
「このダラぶち! 海開きはまだやがいね! 何で若いがに死のうとした!」
 おじさんは面食らったのと安堵から大きな声で叫んだ。そして、僕を力任せに岸まで引っ張っていった。砂浜にたどり着き、おじさんはため息をつくと僕の肩を一度だけ強く叩いた。
「いいか、世の中嫌なことはある。でもな、死んだらいかん。まだ若いがやから何度でもやり直せる」
 おじさんは送っていこうかと聞いたが、家は近くだというと、気を付けてと言って、そのまま僕を置いて車の方へと歩いていった。
 僕は砂浜に置いてあったリュックを背負うと、また歩き出した。この、すべてを投げ捨てたくなった気持ちはどこから来たんだろうと思った。
 帰って、この気持ちに名前を付けようと思った。

「言おう。思ってること、全部」

 帰り道、リュックに入れた携帯電話が震えた。メールだ。リョウヘイからだった。

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 件名:RE:詩のボクシングのテーマについて
 本文:自己紹介。
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