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【小説】光の三分間と声と言葉の青春⑤「ひとりぼっちの野外ライブ」

前回

 僕はブレザーのまま、ベッドに体を投げた。しかし、シャツが皮膚にくっついた瞬間の汗の不快感で、また体を起こした。階下では母さんの怒鳴り声がしばらく続いていた。早くこの不快感をぬぐいたかった。母さんが諦めてリビングに戻ったら、近所の銭湯に行こうと思った。

 鷹岡家は、ばあちゃんが病床について以降、掃除好きの人は絶滅した。三年前まで毎日入っていたホーロー風呂は、すでにカビてペット用の物置と化している。汚い浴槽では余計汚れてしまうので、週三回は近所の不動湯を利用していた。
 ばあちゃんが亡くなって変わったのは風呂だけではない。食事もほとんど外食になっていた。ばあちゃんが亡くなってから母さんは寂しさを紛らわすために犬を飼い始めた。しかし飼ったはいいものの、元来横着な性格が災いしてか、掃除されない我が家はすぐに犬用品やら食べかけのペットフードの缶だらけになった。ゴミ屋敷である。しかも家の中は獣臭が充満しているので、えづいてしまって食べ物が喉を通らない。だから、家庭の味も忘れてしまったし、母さんとの接点は僕が成績不振で怒られるくらいしかない。

 それもあってか、いくら女で一人で僕を育ててくれた母さんに恩があろうと、お互いさまという気持ちはぬぐえなかった。実際、ばあちゃんの介護は自分もしたし、僕の放縦は妥当だと思えた。
 背中で「勉強しろ」と忠告を受けたとて、その言葉はあまりにも軽すぎた。「勉強しろ」と言っていれば親の面目は保たれるとでも言うように、壊れたレコーダーのごとく毎日繰り返されるルーティンを僕はただ聞きながしていた。
「高校辞めて働かれ!」
 下から母さんの声と、ラテの鳴く声がする。
 中卒で働かせてくれるところなどどこにあるのだろうか。高校入学は、ばあちゃんの介護と並行しながら僕なりに頑張った。
「それともコース変えるがけ?」
 特進コースは入学試験で点数を七割以上取らなければいけない分、授業料が他コースに比べて半額以下になっている。無理を言って私立高校に通わせてもらっているうえ、退学にならなかったとしても、転コースなんてしたら、今よりも家計に負担がかかることは目に見えている。
 そうなってしまえば、母さんが言うように、高校を辞めて働かなければならないだろう。現状にどれだけ目を背けても、シビアな現実がそこにあるということは何ら変わらない。
 階下から、母さんの声がやんだ。
「風呂行ってくる!」
 いたたまれなくなりベッドから起き上がり、ビニールバッグにタオルと着替えを詰め込んで家を出た。

 まばらな街頭と、家々の明かりによって開かれた道を、ゆっくりと歩く。
 歩きながら、ひとつ深い呼吸をした。住宅地を歩くと、どこかの家からカレーの匂いが漂ってくる。
 ばあちゃんのカレーを思い出す。過ぎ去ってしまった思い出が風に乗せて流れてくるのは、僕の心の弱い部分を撫でた。
 住宅地を離れた小高い丘に続く石畳の階段を登ると、澄んだ空気が肺を埋め、少し静謐な気分になれる。
 太陽が出ている時間帯に漂う気忙しさや騒がしさ、虚しさといった負の感情を、夜はごっそり振り払ってくれるのである。家と銭湯の往復は多少面倒ではあるものの、外側の清潔を保つだけでなく、屋内で濁った肺をこうやってクリーニングする事もできるので結構気に入っていた。

 家から二百メートルほど先の公園で足を止めた。
 近頃は休日の昼間でさえもあまり人の集まらないこのショボいスペースを果たして公園と言ってよいのか微妙なところだが、小さな砂場と傷だらけの木製シーソーとさびた滑り台という遊具たちの存在を看過するのは可哀想であり、確かに公園だ。
 かくいう僕は、幼少期に結構ここで遊んでいた。当時はシーソーも滑り台もきれいで、近所の友だちとDSを持ちよってマリオカートの通信対戦をしていた。
 滑り台のスロープ部分にふれると、むろんひんやりとした。
 しかし表面温度のみならず、内部に燻る虚無感のような冷たさも含んでいた。夜気にもまぎれない虚しさは、かつてのように頻繁に使われなくなったことを嘆いているようにみえた。
 シーソーの上にビニールバッグを置き、滑り台に手をかけて上った。
 いい歳した男が、暗闇の中ひとりで遊んでいる光景は明らかに怪しい奴だよなと我ながら思う。誰かに見られたらなどと心配しなくとも、この時間、ほとんど人は通らない。

「かつてはするする滑ってた。でも、今はすっかりぎっちぎち! ビッグなヒップにゃハードなワイド!」
 頂上に座ったところで、僕は現状を即興でラップにする。ヤスダたちに教えてもらったラップだ。
 観客が夜空だけというのはやや淋しいが、ぼっちの僕には似合いの姿だ。
 客席を仰ぎ、声のボリュームを上げて叫ぶ。
「点数大事さ高校大学、稼ぎはお幾ら会社のSlave、年金暮らしな気ままな老夫婦、どこまでいっても数値がValue」
 そんなもので人生の優劣がつくなど、ばかばかしいことだと思うのが本心だ。だが、まったく無視して生きることはできない。
「数字を出せなきゃ社会のお荷物、出すべき努力を怠る家族、それに腹立つそんなに冷酷?」
 客席に問いかけるも、むろん返事はない。
「はみ出し者への社会の対策、レールに乗れなきゃ下手すりゃ退学⁉」
 もう一度叫ぶも観客は答えない。濃厚な沈黙が公園を支配する。
 思い切り、滑り台の手すりにこぶしを打ち付ける。腕に広がるじんわりとした痛みで、目の前の輪郭が次第にぼやけてくる。夜風が俺の火照った体を冷ました。
「辞めたくないなあ……」
 そろそろ降りよう。乾いた汗が冷たい。
 流れに身を任せて下降することはできず、間抜けにも手動で地上に戻る。
 久方ぶりの遊具とのふれあいに童心に帰ったような心地だった……などということはなく、尻に若干の痛みを覚えただけである。

 やれやれと呟きながらも、今度はシーソーに腰かけてみた。
 こちらは関係なく乗れるのでひと安心だ。表面はあちこち傷ついているが、座面はまだ比較的綺麗だった。木製のなめらかさが心地よい。
 しかし、当然ながらひとりでは沈むだけだ。向かいに誰か乗ってくれたら浮けただろうな。目の前のぽっかりとあいた空間に、隙間風が入り込んだ。
 ……行こう。
 遠くで犬が吠える。
 五月の夜空は、薄曇りだった。

次回

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