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スマホが悪いんじゃない、依存する自分が悪いのだ

 気がつくと無意識にスマホを開いている。電車の中でふと気付き、周りを見渡すと、同じようにスマホの画面に没入している人がたくさんいる。若者だけではない、年齢に関係なく、小さい子どもから高齢者まで。たしかに親からすれば、子どもが画面のアニメやユーチューブに見入って静かな間は心穏やかかもしれない。しかし、おそらく3歳にも満たない幼児が何も言わずに画面に釘付けで、誰にも教えられることなく「次へ」のボタンを押しているのを見た時にはさすがに恐ろしい思いがした。もちろん、スマホが生まれたことで世界が変わったことは言う前もない。でも、言葉よりも先にスマホの操作を覚えることが本当に正しいのだろうか。

 こんなことを真剣に考え始めたのは、「ポケモンゴー(POKEMON GO)」が大流行したからである。当時、街中で珍しいポケモンが現れる場所にたくさんの老若男女が集まり、みなスマホに釘付けで画面をフリックしていた。しかも、数十〜100人近い人々が集い、互いに話をするわけでもなく突っ立ているのである。どう見ても狂気の沙汰だと思った。その頃から電車でもどこでもスマホを開くことに抵抗を覚え始めた。僕は「ポケモンゴー」なんてやっていない。誰にでもない無言のアピールだったのかもしれない。

 それからというもの、もともと読書が好きだった僕は、移動中などこれまで以上にスマホを開かず本を手に取るようになった。ご飯やさんでも食べログの評価なんかも調べないようにした(もともと参考にしたことはなかったけれど)。SNSの更新頻度も極端に減った。そうすると、普段の生活における調べ物や意思決定をいかにスマホ任せにしていたのかを思い知ることになった。

 この間、六本木でよく行く居酒屋でランチを食べていた時、店主のおばあさんがスマホを買ったのだと自慢げにやってきて、電話の掛け方を教えてくれと言うのである。便利だから使えるようになろう、ということ自体は素晴らしいと思う。なんだって意志を持って物事を覚えるということは学ぶことに他ならない。そうではなくて、なんの違和感もなく、無意識にスマホを使ってしまっていること、そしてそれに気づいていないことがいかに恐ろしいかということである。わかって使う分には本当に便利な機械であることに間違いはない。しかし、自分が依存していることに気付かないこと、これこそが中毒なんだと思ったのである。

 数年前に出版業界を引退されたある大物編集者と話していて、「僕が唯一幸せだったのは、現役の間デジタルが普及しなかったことだった」という話を聞いたことがある。当時はよくわからなかったが、今ならすごく共感できる気がする。多分、その方が幸せだったんだと思う。僕がこれまでの人生でそこそこ身につけて良かったと思うことが「自分で考える」という能力なのだが、自分で考えて物事を評価できること、こんな簡単なことさえスマホに奪われかねないのだから、たまったもんじゃない。何度もいうが、別にスマホを否定しているのではなくて、気付くか気付かないか、考えられるかどうか、ただそれだけのことである。こんな考え自体が古いのだろうか。

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