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TOKYO UTOPIA

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余白を余白のまま価値とする。モノに溢れた現代においては、そんなことが可能だと思う。光と水、香り、音、そして触れること。そんな簡単なものだけで、求めている世界は作れるのかもしれない…
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無駄なものと暮らす

「好きな自宅は?」と聞かれたら「フィンランドにあるアルヴァ・アアルトの自邸」と答える。ヘルシンキの中心から少し離れた高級住宅街にひっそりと立つお家で、書斎からの眺め(上記写真)が最高なのはもちろんのこと、この家には“あらかた生活必需品の類が見られない”からだ。いや、本当は生活必需品もたくさんあると思う。だけど、全てこだわり抜いて集めた逸品ばかりで、全て趣味の蒐集品のように見えたのだ。 生活に必要な最低限のものしか持たない「ミニマリスト」という言葉があるが、僕は其れが少し苦手

落ち着く場所が見つからない。

仕事を終えて、帰る場所。自宅はつねに安住の地であるべきだと思う。だが、東京へ来て10年。8回の引越しを経てもなお、それは見つからない。 今年4月に1年半ぶりの引越しをした(僕にとっては比較的長く住んだ方)。理由はシンプルで、新しく購入したドラム式洗濯機が通路を通らずに搬入できなかったから。自分でもバカだなあと思うが、せっかく手に入れた高級家電を無駄にはできず、すでに2年の更新も迫っているからという理由で、引越先を探していた。 そんな中で、立地は少し悪いがバス停も近くにある

美術館が欲しい。

シェアリング・エコノミーという言葉が普及して久しいが、ぼくはずっと「アンチ・シェアリング・エコノミー」という考え方が大事だと考えている。 シェアリング・エコノミーというのはその名の通り、ものごとをシェアすることで、無駄なく経済を回すというもの。しかし、ぼくはシェアリング・エコノミーの本質は決してこの「共有」ではないと思う。「感情喚起」にこそ、シェアリング・エコノミーの可能性があると思うのだ。 これはよく言われていることだが、洋服のレンタルサービスの登場によって洋服が売れな

どこまでが内で、どこからが外なのか分からない曖昧な世界

日本建築ってやっぱり内と外が曖昧だよなあと思う。そもそも、昔のお屋敷ではだだっ広い広間に屏風を立てて適当に(可変的に)部屋を仕切っていたわけで、そもそも日本古来のお部屋では、仕切りの文化が曖昧だったりする(この辺の話は柏木博氏の「『しきり』の文化論」に詳しい)。 写真はかなり昔に行った京都の源光庵。丸い「悟りの窓」と四角い「迷いの窓」、そして争いの跡が残る伏見城遺構の「血天井」が有名だけど、ここはとにかく外と繋がっている空間だなあという印象だった。廊下には全て縁側があって、

宗教と山、哲学と登山。

宗教と哲学の違いとは何だろう。もちろん明晰な答えがないことは自明だが、個人的には山に例えて「宗教=山」で「哲学=登山」だと思っている。 宗教は“教義”という山頂がある山のようなもので、頂へたどり着くにはどんな登り方(祈り方?)をしてもいいし、疲れたら休んでもいい。相手は山だからこちらに何も求めてこないが、求められれば(祈ることで)答えてはくれるような存在である。事実、日本では大体の寺が山奥にあって、修行といえばそこで行われるものである。 一方の哲学は登山という行為を指す。

自然と吸い寄せられる彫刻作品

「触れることができる美術館」について前回書いたが、その展示を行なっていた北海道立近代美術館には、こんな石のようなオブジェがある。安田侃という北海道出身の彫刻家の作品で、僕はこの方の作品が大好きだ。 北海道出身というだけあって、北海道立近代美術館をはじめ、北海道駅の待ち合わせ場所(下写真)や洞爺湖沿い(TOP)など、いたるところに彼の作品が置かれている。出身地・美唄(びばい)には「安田侃彫刻美術」もあるほどだ。 安田の作品は東京にも数多くある。一番有名なのは、六本木ヒルズだ

仕組まれた体験ばかりの世の中で

ここ最近ずっと海とか湖とかばかり載せてきて(自分がそうすると言ったんだけど)、まだまだ候補はあるんだけど飽きてきたので、ちょっと違う場所を取り上げて行こうと思った。 お盆真っ只中、子どもが街中で楽しそうにはしゃいでる光景をよく見る。子どもたちは真っ直ぐな瞳で、気になったものになんでもペタペタと手で触れてみる。人のものに触れて、親が慌てて謝る、なんてこともよくある。 子どもたちが気になるものに手を差し出すという行為自体はとてもいいことだ。自分の目で見て、手で触れて、それがど

心洗われる空気のある場所に

あの本に出会って価値観が変わったとか、あの音楽を聴いてミュージシャンなったとか、海外旅行で見た光景が今のビジネスにつながったとか。取材をしていると、そういう話をよく聞く。 人生を変えるほどの出会いって、どの程度あるのだろう。ぼくには、そういう経験がない。もちろん、単純な経験不足かもしれない。気付くべき感性が欠如しているだけかもしれない。でも、何かとの出会いが人生を大きく変えたことは今のところ多分ない。 たしかに大学時代もその後の進路も今の仕事も、どれもあんまり普通じゃない

みんな“ゆらぎ”を求めている

大磯プリンスホテルに「THERMAL SPA S.WAVE 」というスパがある。海につながるインフィニティプールが話題だけど、温度帯の異なる4つのサウナが面白かった。自分の適温を見つけていくあの感覚、すごく心地が良かった。 サイトにあるロゴを見てもわかるように、“ゆらぎ”がこの施設の大切なキーワード。“ゆらぎ”に溶け込むような感覚が味わえるというわけだ。夜のインフィニティプールも、そういった意味ではすごく不思議な気分になれる場所。プールと海と空の境界が曖昧で、自分の居場所が

小田原から太陽へと続く長い道

僕が大好きな芸術家の一人・杉本博司による壮大な美術館「江ノ浦測候所」。小田原にある予約制の美術館で、今となってはかなり有名になったが、ここはやはり建築好きの人々にとっては垂涎の的だろう。予約制なので混むこともなく、ゆっくりと見られるのもいい。 とは言っても、芸術品が飾られているというよりは、建物自体がアート。その点で「豊島美術館」に通づるものがあって、好きなわけだ。しかも、建築は全て自然に向かって作られている点もいい。 たとえばこの「夏至光遥拝100メートルギャラリー」に

心のざわつきと、どこまでも透明な湖

午前中の宅配を待ち、12時過ぎに家を出た。電車に乗ろうとしたところ、人身事故があったという案内。僕が向かう方面の隣駅だった。2駅先で乗り換えがあるので、仕方ないから歩こうと思い直し、炎天下の中を20分ほど歩いた。 何も考えていなかったのだけれど、線路沿いに駅を目指したせいで、人身事故の現場を通ってしまった。現場には無数の警察車両、消防隊が止まり、無表情のまま交通整備と現場検証を行なっていた。事故車両の電車にはまだたくさんの人が乗ったまま、動き出すのを待っていた。向かいから来

スマホを忘れてしまうほどのアナログな体験

ここ最近何でもかんでもデジタル化している世の中だけど、本当にそんなにデジタル化って必要なのだろうか。IoT家電とかボイスコマースとか、本当に今の水準で必要なのかなあと思う。 僕はテクノロジーとかスタートアップとかの記事を書くことが多いので、デジタルネイティブだと思われがちだが、実際はむしろめちゃくちゃアナログな人間。クーラーもテレビも手でつけたい派だし、読書は絶対にデジタルでしたくない。スマホだってつねに最新版にアップデートしたいなんて思わない(今のスマホもう3年目だし・・

その場でありながら、その場ではないような空間

その場でありながら、その場ではないような空間を作りたい。とても禅的な表現で、論理的ではないようにも思うが、そんな場所が作れるんじゃないかと思っている。それはリアルでもデジタルでもない場所。1.5次元的な空間だろうか。そんなことをお昼に話していたら「土地から浮遊した場所みたいだ」と言われてしっくりきた。そうかもしれない。 マーケティング視点でいえば「ローカライズ」というのはその一つの手法かもしれない。具体的にいえば、ブランドの哲学に応じて、その土地のコンテクストに合わせたお店

「感動の閾値」は人それぞれである。

人にはそれぞれ「感動の閾値」がある。自分が作った(広義の意味で記事とか写真とかSNS投稿とかも含めての)作品に対する感動の閾値は、人によって異なるのである。 自分が渾身の思いを込めて作ったものが評価されるかどうかは作り上げた作品の閾値次第で、最高傑作だと思っても案外評価されなかったり、6割くらいのパワーで作ったものが褒められたりもする。全力の作品が評価されると、この上なく嬉しいわけだが、このバランスはとても難しい。 閾値の設定ははたして自ずからできるものなのだろうか。ウェ