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ミッシェルとももクロとボランティアと、大人になってから親友ができるということ 【015/200】

神戸に向かっている。
友人の結婚披露宴に出席するためだ。彼と知り合ったのは、7年前のちょうど今頃だった。大阪と東京という物理的距離もあるけれど、年に数回しか合っていないのに、会うたびに限られた時間の中で濃密な話をし、リスペクトが深まっていく。大人になってから親友と呼べる友ができるなんて、10年前の僕に(つまり、20代を終え、30代を迎えようとしていた僕に)想像ができただろうか。

彼との出会いを語るにあたって、触れなければならないことがある。ももクロだ。
彼とはいわゆる「推し被り」であり、ともに赤推しであり、生来の阪神タイガースファンである。
その彼と「ももクロ春の一大事2012〜横浜アリーナ まさかの2DAYS」の会場で出会った。

2011年に東日本大震災が起こり、世界が変わった。僕自身、アイデンティティが崩壊し、何を信じていいかわからなくなった。
2003年10月11日に thee michelle gun elephant が解散し、僕は盲目的に全身で全力で想いをぶつけられるライブバンドを失った。2009年7月22日にアベフトシの急逝でミッシェルの再結成の望みが断たれたことで「可能性」も完全に失われた。
震災が起こってからの数か月間、音楽にも頼れず不安定なメンタルで必死に自分を保とうとしていた時に、YouTubeでTIF2010のももクロの「走れ!」の動画を見た。衝撃と希望が胸を貫いたことを今でも鮮明に覚えている。動画を教えてくれた大学時代からの友人が、2011年8月によみうりランドで行われた野外ライブ「サマーダイブ2011 極楽門からこんにちは」に誘ってくれた。幕張メッセでミッシェルの「世界の終わり」が鳴り止んだ時からずっと止まったままだった僕の時計が、再び動き出したのは、この時だったのだと思う。


ももクロのライブに通うようになり、件の大学時代からの友人が中心となって、仲間が増えていった。友人つながりもあれば、ライブでたまたま隣の席に座っただけのつながりで仲良くなった友もいる。大阪・三重・愛知・東京・青森でそれぞれ暮らしながら、年に数回ももクロのライブで会って飲む。最近は、仲間内の結婚式が重なり、その度に「バカ騒ぎ隊」としてひたすら純粋にくだらない話をしながら飲む。純粋なものを純粋に愛する仲間が、年齢も肩書きも関係なく純粋に仲良くする。余計なしがらみのない、ただひたすらに「笑顔」を生み出すライブが、そこで出会った「笑顔」を湧き起こしてくれる仲間たちが、震災が世界を変えた2010年代を、苦しいことだらけだった僕の30代を、支えてくれた。

僕も、誰かの笑顔の役に立ちたい。そう思うようになったからこそ、僕は自分の歌を取り戻した。純粋な自分の想いを、そのまま歌うことができるようになった。
初めてのボランティアとして、児童養護施設の子どもたちの支援を始めた。そこで、誰かの笑顔のために活動しているまた新たな仲間たちに出会った。また、何のしがらみもなく純粋に語り合える、リスペクトできる、お互いに応援しあえる友人が増えていく。

幼少期から学生時代に得られた「親友」たちに加えて、大人になってからこの10年間で出会えた「親友」たちと、これからの2020年代を過ごすことができるというのは、なんと幸福なことだろう。


神戸はあいにくの雨だった。
そんなの関係ないと言わんばかりに、新郎も新婦も、祝福に集まった友人たちも、笑顔だった。ゲストへのおもてなしと、ゲストからの祝福と応援と。ライブと同じだ。コール&レスポンス。宴の後半には、彼が20年来のファンである THE MICETEETH が駆けつけて、祝福の生演奏をしてくれた。音も、空間も、最高だった。音楽の力は、やっぱりすごい。

 会いに来れて、よかった。10年前には全く想像つかなかった幸せな時間。彼の笑顔が、花嫁の笑顔が、祝福するみんなの笑顔が、今日の僕にとって、世界中の何よりも価値のあるヘッドラインニュースだ。本日はあいにくの雨天なり。けれども、みんなの心の中は、晴天が澄み渡っている。

純粋なものは、純粋なままがいい。
飾りも恥じらいもてらいもいらない。
大切なことは、そのまま伝えるべきなんだ。

けいちゃん、おめでとう。
出会ってくれて、ありがとう。

noteを読んでくださりありがとうございます。 歌を聴いてくださる皆様のおかげで、ヤマカワタカヒロは歌い続けることができています。 いつも本当にありがとうございます。