みんなが「専門家」でありみんなが「表現者」である時代に、専門家や表現者になるということ
このノートを書いてるのは、日本対ベルギーの試合が終わった日の火曜日のお昼休みの時間です。素晴らしい試合でした。何より、圧倒的にフィジカルの強い相手に対して、あそこまで勇猛果敢に前へ前へと向かった姿に感動しました。おそらく日本の子どもたち(だけではなく、大人もまた)は大きな勇気をもらったことだろうなと思います。
そんな今回のワールドカップを、時折ツイッターでブツブツいいながら手元のタブレットで見ているわけですが、そのスタイルはなんとも楽しいものでした。普段は単に写真をアップするだけの、いわば「写真bot」みたいな存在でいるアカウントが、サッカーを通じていろんな人と同じ感動を共有できたわけです。いい時代になったなと思います。
で、そういうサッカー一色に染まる深夜のタイムラインを見ていると、たまにすごい明晰な分析を加えているツイートなどが回ってくることがあります。各チームの狙いや、戦術的なスペースの作り方の分析など、一瞬専門家かと疑うようなツイート。でも驚いてそのユーザーを見てみると、専門家というわけではない。普通のサッカーの愛好家であり、多分、普通に働いている僕と同じような一般の人です。
そういう人が一人だけではなく何人も何人も、僕のタイムラインにRTや「いいね」の形で流れてくる。そのたびに感心して、「ほあー、そういう見方があるのか」と、フィールド上の新たな見方を知ることができて喜んでいました。そしてふっと気づくのです、ああそうかと。
こうやって見ている知識が僕の頭に流れ込んできて、例えば次のアジアカップなんかで似たようなことを僕がつぶやいたとしたら、そのつぶやきは誰かのもとに流れて、誰かが僕のことを、「お、よくわかってるじゃん」みたいな感じで思うのかもしれないなと。
こうやって知識がすごい速さで集積され循環するシステムが整った時、我々は気づかないうちに、ある時点でなにかの「専門家」になり、なにかの「表現者」であるような、そんな世界に生きることになったのでしょう。
意見や作品の発表の敷居がほとんどコストゼロまで引き下がったこの世界では、すべての人間が「専門家」や「表現者」になりうる可能性を持つようになったわけです。そんな世界において、ある領域の「専門家」や「表現者」になるということは、改めて難しいことです。
分野に固有の知識や表現が他者を通じて一瞬で蓄積され、それを学ぶことがますます容易になる世界では、一般の人たちから「専門家」や「表現者」を区別する有意な差というのは、どんどんと小さくなってきています。
中でもそのような事態がすごい勢いで進んでいるのは、写真というジャンルだろうと思っています。
カメラ一台といくつかのレンズ、そしてLightroomとPhotoshopさえあれば、現在プロとアマの機材的な差というのは、実はそれほど大きくありません。しかも知識の集約も凄まじく、あらゆる手法は瞬時に共有されていきます。行くことが難しい撮影場所もSNSで共有されるので、昔なら「秘伝のタレ」として秘されていた情報も、どこかから漏れ出ていつのまにか誰にでも知れ渡る世界になりました。好むと好まざるとにかかわらずです。
そうなると、「写真の専門家」としてやっていくというのは、とても難しくなります。先行者利益は食い尽くされて、これまでに用意されていた「写真家用のパイ」は、もはやほぼ残っていないか、取り分が少ないと考えるほうがいいでしょう。そしてこのことは、他の多くのジャンルでも現在起こっていること or 将来起こるだろうことだろうなと予想されます。
そんな中で、「専門家」や「表現者」は、どのような形で自らのキャリアを作っていけばよいのでしょう?
実は、答えのほうは大体わかっています。学問の世界では20年ほど前から始まっていたことなんですが、「専門領域をいくつも横断すること」なんですね。
つまり、自分の専門世界という小さい蛸壺の中の小さいパイを必死に守るんではなくて、自分の蛸壺を出て、他の領域を横断していくような「道」を作ることです。まあ、言うは易し行うは難し、なんですが。
ただ、これの利点は、もちろん「他の専門性」や「他の表現の特別性」といった、別のパイにアクセスできるというだけでなく、その行為自体が「新しい価値」を生み出すということなんです。つまり新たな「パイ」を自分で作る。世界に「別の価値のレイヤー」を生み出すことになります。1+1=3や4になる行動なんです。これこそが、この全世界「総専門家・総表現家時代」における、たった一つの有効な差異化の道だと思っています。パイはいずれ食い尽くされるのだから、自分で生み出さないといけないということです。
だからこそ僕は、文字を書こうとしています。自分のもう一つの専門性を写真に結びつけようという試みですね。2年ほどまえから始めたことです。一眼レフだけじゃなくドローンを使ったり、タイムバンクに登録してみたり、動画メディアのCURBONに協力しているのもそういう一環で、それは徐々に僕の生きられる領域を拡大してくれています。
というわけで、今から「専門家」や「表現者」になろうとしている人は、あまり自分の専門の「ジャンル的決まりごと」に毒されず、できるだけフラットにいろいろな知識へとアクセスするのが良いと思うんですね。自分の得意分野を逸脱することは怖いことですが、大体そういう「怖い寄り道」の先にこそ、特別な武器や防具の入った「宝箱」が落ちているものですから。
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